【飛驒民俗村 飛驒の里】集落文化を未来へ・歴史学芸アドバイザーと紐解く、飛騨地方の農山村の民家と暮らし

高山観光といえば町家が並ぶ「古い町並」が有名ですが、一方で、昔ながらの飛騨らしい、素朴な原風景を味わえる場所もあることを知っていますか?

今回は、野外博物館「飛驒の里」の魅力と、後世に伝えたい飛騨の民俗文化について、歴史学芸アドバイザーさんからじっくりお話をうかがいながら、徹底解説します!

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【飛驒民俗村 飛驒の里】集落文化を未来へ・歴史学芸アドバイザーと紐解く、飛騨地方の農山村の民家と暮らし

飛驒の里とは?

「飛驒民俗村・飛驒の里」の概要について説明します。

▲五阿弥池から眺める館内の様子。「飛驒の里」に入った瞬間、まず目に入るのがこの光景です。 


高山駅から車で約10分。高山市街地の南西・松倉山のふもとに野外博物館「飛驒の里」(ひだのさと)があります。


館内には、国指定重要文化財の4棟をふくむ、約30棟の古民家があり、豊かな自然とマッチして、まるで飛騨の農村に迷いこんだような気分を味わえます。


飛驒の里の様子。取材日は5月初めでしたので、端午の節句で「こいのぼり」が掲げられていました。 


▲ 館内の車田にて。五月晴れの下、田植えの準備をしています。 


▲こちらは11月の「菜洗い」の実演。飛騨高山の晩秋の風物詩です。冷たい川の水で漬物用の野菜を洗います。 

開館当時から行われている「飛騨の年中行事」や「伝統工芸の実演」は今も人気で、近年では地元有志による様々なイベントも催されています。※飛驒の里イベント情報はこちら


▲飛驒の里から見える飛騨山脈の山並み(2025年11月) 


<場所はこちら>





ちなみに『飛驒民俗村』という名称ですが、これは「飛驒の里」と「民俗村」を合わせた総称です。 


民俗村は、飛驒の里・出入口を出て、飛驒の里通りの坂道を800mほど下った所にあります。旧野首家や山岳資料館があり、無料で見学することができます。


また、飛驒の里と民俗村の間には「文学散歩道」があり、飛騨にゆかりのある作家の文学碑をたどりながら散策を楽しめます。


※詳細はこちら⇒『山岳資料館と文学散歩道』(飛驒民俗村・飛驒の里 公式サイト)


▲文学散歩道の案内標識 


今回は、飛驒民俗村の中から「飛驒の里」をピックアップして、詳しくご紹介します!

「飛驒の里」ができるまで ~開館までのヒストリー~ 

飛驒の里・誕生の背景には、「便利さ」と「豊かさ」を手に入れる代わりに、飛騨の集落文化が失われていく…という切ない現実がありました。ここでは、飛騨の里ができるまでの 経緯(いきさつ)をご紹介します。

飛驒の里にある合掌造りの家・旧若山家(国重要文化財)には、『飛驒民俗村の昨日、今日、未来』というタイルの額が展示されています。


ここには、飛驒民俗村名誉館長で、飛驒の里の創立に尽力した人物・故長倉三朗氏(1911~1997年)の言葉が記されています。


▲『飛驒民俗村の昨日、今日、未来』


冒頭部分を一部、ご紹介します。


「人々の生活は長い間 長い年月の間に 幾度か変わってきた。それは歴史を見返すことによって知ることができる。しかし、昭和三十四年から三十六年にかけて、 二ヶ年ほどの間に日本人は大きく姿を変えた。

(中略)

また当時、発電が盛んになり、山国飛驒には諸所に大きなダムが作られたが、これに伴う多くの水没家屋の中で、白川村の合掌造りは特異な家とし当地以外の各地へ移築されていった。

こうした中、当地でも飛驒の家を残すべしという声が高まり、高山に移築することになった。これが、民俗館となった荘川村の若山家である。」





昭和20年代、戦後の経済成長を支えるため、エネルギー(電力)の安定確保を目的に、日本各地で「水力発電ダム」が計画されました。そして、昭和30〜40年代には、全国の山間部の渓流に大型ダムが建設されました。


飛騨地方でもダム建設ラッシュが押し寄せ、現・高山市内では、荘川町(旧荘川村)と白川村の御母衣(みぼろ)ダム、高根町(旧高根村)の高根第一・第二ダム、朝日町(旧朝日村)の秋神ダムなどが造られました。


▲御母衣ダム(画像提供・飛騨高山観光コンベンション協会)

ダム建設によって、人々の暮らしは豊かになった一方で、集落はダム湖の底に沈み、故郷を失った人々は都市部へと引っ越していきました。


さらに、自動車や家電製品が普及すると、日本国民の生活スタイルは急変します。より便利で快適な暮らしを求めて、人々は都市部に出ていきました。過疎化が進み、消えていく集落もありました。


豊かな自然の中で育まれてきた飛騨の民家や民具も、社会の変化に合わなくなり、その価値を失い、みるみる消えていきました。住む人がいなくなった家は荒れ果て、便利な新しい家に建て替えられ、使わなくなった民具は捨てられました。小さな集落は荒廃していきました。


▲飛騨のソリ。長倉氏は、こうした民具にも価値を見出し、飛騨各地から収集して大切に保存しました。(飛驒の里)


また、白川郷(現・白川村と高山市荘川町)の集落の一部では、ダム建設によって合掌造りの家が他県に移築され、飛騨の貴重な古民家が外へ流出していきました。


この状況に心を痛めたのが、高山の陶芸家・長倉三朗氏でした。


長倉氏は、江戸時代に廃れた高山の小糸焼を再興した人物で、飛騨の民俗文化への造詣が深く、飛騨の貴重な民家や民具が失われていくことに強い危機感をおぼえました。そして、一刻も早く保存し後世に残さなければ…と立ち上がります。


「飛騨にある古民家は飛騨に残すべきである」


長倉氏の進言と市民の声によって、高山市も動き始めました。


昭和34年(1959年)、荘川村(高山市荘川町)にあった合掌造りの家・若山家を、高山市の松倉山の西麓(現「友好の丘」の駐車場付近)に移築し、「飛驒民俗館」が開館します。長倉氏は、市から民俗館の管理運営を任されました。


▲旧若山家

その後、民俗館には、旧野首家や、旧高山測候所(現・山岳資料館)など、市内にある古い建物が移築されました。


ところが、そうこうしている間も、飛騨各地で貴重な民家・民具が失われていく情報が次々と届き、長倉氏は危機感を強めます。


▲馬頭観音像。かつて飛騨の集落にあったものです。(飛驒の里)

そこで、かねてより温めてきたプラン…「日本にもスウェーデンのスカンセン民俗博物館のように、その土地の民俗文化を一堂に集めたものができないか」という思いをかたちにすべく、集落博物館の建設構想を打ち立てて、高山市に提出しました。


こうして誕生したのが「飛驒の里」です。


※長倉氏と高山市の取り組みについては、飛驒民俗村公式サイトに掲載されています。こちらもぜひご一読ください!

「飛驒の里誕生物語」⇒第一章第二章第三章第四章第五章


「飛驒の里」という名称は、当時の高山市長・元仲辰郎氏によって命名されました。


その後、旧飛驒民俗館(現・民俗村)と飛驒の里を合わせて「飛驒民俗村」となり、また、民俗館にあった旧若山家が、飛驒の里に移され、現在のかたちになりました。


▲「飛驒の里」館内図



「民俗という生活に根付いた文化を、未来の飛騨人(子どもたち)に残さなくてはいけない」という長倉氏の思いが、飛驒の里の【理念】となり、今も館内のすみずみに反映されています。

  • 移築される民家は、家の向き、土台、周辺の環境をかつて建てられていたのと同じ条件で復元する。
  • 家の中では囲炉裏に火が入り、かつての生活がわかるように様々な用具を配置する。
  • 田畑では、実際の村のように稲や野菜が栽培され、池や道端には季節ごとに花が咲いている。
  • 伝統行事が行われ、伝統工芸品が古い民家での生活とともに作られる。
  • 自然に囲まれた村を実際に訪れたかのような体験を、入場者にしてもらえる集落博物館にする。


これらは飛驒の里開館当初から徹底されており、令和になった今も、この理念に基づいて管理運営しています。


▲旧若山家の囲炉裏


飛驒の里は、今年(2026年)で開館55周年を迎えました。


かつては日本人観光客が多く訪れていましたが、近年は、欧米からの外国人観光客に人気です。来館者は思い思いに散策し、飛騨の民俗文化に触れ、四季折々の自然の風景を楽しんでいます。


「飛驒の里」について教えてくださる歴史学芸アドバイザーさんをご紹介します!

田中彰(たなかあきら)さん

元高山市役所職員。高山市教育委員会・文化財担当を30年間勤め、退職後は高山市史の編纂に13年間携わりました。飛騨高山の歴史のスペシャリストです。NHK「ブラタモリ」飛騨高山編にもナビゲーターとしてご出演されました。

現在は、飛驒民俗村専属の歴史学芸アドバイザーとして、飛騨の古民家や民俗文化の価値を伝える活動をされています。



本日は、田中さんに「飛驒の里」についてたっぷり解説していただきます!よろしくお願いします。


▲左が田中さん、右は筆者です。飛驒の里・管理事務所にて。

【知っておきたい豆知識】飛騨の民家の歴史と特徴

散策に出かける前に予習です!飛騨地方の農家の種類と特徴について、歴史学芸アドバイザーの田中さんに詳しく教えていただきました。

飛驒の里には、江戸時代後期から明治時代に建てられた、飛騨地方(高山市・飛騨市・下呂市・白川村)の古民家が集められています。


「ここ(飛驒の里)には町家は一軒もありません。どれも農家です」と田中さん。


ちなみに、高山の人気観光スポット「古い町並」は、町人が住んでいた地区なので、全て「町家」建築になります。一方、飛騨地方の農家は、町家よりもバラエティー豊かで、地域によって家の形に特徴があるそうです。


さて、どんな種類があるのでしょうか?田中さんに解説してもらいました。



【飛騨の農家について】飛騨各地の建物の優れた特徴 


飛騨地方の農家は、大きく3種類に分けられます。

▲飛騨地方の民家の分布図(田中彰さん作成)

上の図を参考に、順番にみていきましょう。



①クレ葺き石置き屋根


まず最初は、赤枠の「クレ葺き石置き屋根」(くれぶき いしおきやね)の家です。


これは、飛騨地方の標準的な農家で、屋根に「クレ」(=木の丸太を特別な割り方で割った後、専用の鉈〈なた〉等で割り口を作り、木材を薄く板状にはがしたもの)を葺き、クレ板が動かないよう上に石を乗せています。


分布は、飛騨市・高山市・下呂市と広範囲にわたっています。この地域は、建築材料に適した良質の木々が多く採れたので、クレ板をたくさん作ることができたそうです。


▲クレ葺き石置き屋根の家・旧田中家(国重要文化財・飛驒の里)

実は、昭和30年代ごろまで、高山では(農家に限らず)だいたいの家はクレ葺きでした。高山の町家も、昔はクレ葺き屋根だったのです。その後、クレに替わってトタン屋根が普及し、一気に消えてしまいました。今は高山陣屋の米蔵と飛騨の里で、この屋根を見ることができます。


「私の家も、昔はクレ葺き石置き屋根の家でしたよ。みんなどこの家もそうでした」と田中さん。


そういえば私の夫も、子ども時代はクレ葺き屋根の家に住んでいた…と話していました。夫の祖父は、クレヘギ職人(クレ板を作る職人・ヘグ=剥ぐ)だったそうです。



②入母屋合掌造りの家


次は、黄枠の「入母屋合掌造り」(いりもや がっしょうづくり)の家をみてみましょう。


分布は、荘川・古川・河合・宮川の飛騨西北部で、隣り合わせの白川村と同じく、冬には雪がたくさん降る豪雪地帯です。そのため、クレ板ではなく、雪に強いカヤ葺き屋根になっています。


庇(ひさし)があって四方向に屋根があり、家の妻側には明かり窓がつけられています。


▲入母屋合掌造りの家・旧富田家(県重要文化財・飛驒の里)

▲入母屋合掌造りの家・旧八月一日(ほづみ)家(県重要文化財・飛驒の里)

入母屋合掌造りの家は、全国的によく見られるもので、家の形としては歴史が古いそうです。


確かに、こういう形の家は、日本昔話の絵本の挿し絵によく出てきますね。


「飛騨国でも、平安や鎌倉時代には、このような建物が多かったんじゃないかと思います」


この入母屋の家がやがて変化して、あの世界遺産で有名な白川村の切妻合掌造りの家になったそうです。



③切妻合掌造りの家


最後に、青枠の「切妻合掌造り」(きりつま がっしょうづくり)の家をみてみましょう。


白川郷と呼ばれる地域に分布している家で、入母屋造りの家より背が高く、かなり大きく感じられます。


▲切妻合掌造りの家・旧西岡家(県重要文化財・飛驒の里)

ちなみに白川郷で、入母屋から切妻の家へと切り替わったのは、江戸時代後期だそうです。


「変わった理由は、生業(なりわい)のためです」と田中さん。


生業とは、生きていくための糧(かて)であり、生活のための生産活動です。


白川郷では「養蚕」を生業としており、蚕のフンを使って煙硝(えんしょう)も生産していました。そこで、より多くの蚕が飼えるよう、2階・3階部分がフルに使える切妻合掌造りの家が建てられました。これで延べ床面積がいっきに増え、生産性もアップしました。


▲旧西岡家の2階。かつてここで蚕が飼われていました。今は養蚕用具が展示されています。

▲旧西岡家にあった古い説明書き。白川郷で切妻合掌造りの家が建てられた理由が記されてあります。


「クレ葺きや入母屋の建物では、大家族を養うことはできません。生活よりも生業の便利さを求めて、家の形態を変えていったんですね。それも自然発生的に。」


厳しい自然環境の白川郷では、養蚕が家計の支えでした。それで、より効率の良さを追求して、切妻の合掌造りの家が誕生したのだそうです。



飛騨地方で多様な「農家」が残っている理由


だけど、裕福な旦那様(豪商)の家ではない、山村の集落にあった田舎の民家が、今もこうして残っているのはどうしてなのでしょうか?


「それはやっぱり、飛騨の寒冷地で育った良質の材料(木材)で作られたこと。そして、名工と呼ばれる腕の良い大工が建てたこと。最後は、良い施主ですね。口を挟まず大工に任せるのが良い施主です。この3つがそろって完成した素晴らしい家だから、子孫もこの話を代々聞かされて、大事に守ってこられたのでしょう」


▲「オガヒキ」(=大鋸〈おが〉と呼ばれる大きなノコギリを使い、木目に沿って同じ厚み・同じ長さの板材を作ること・大鋸挽き)をしている途中の木材。昔はオガヒキ職人がいて、手作業で板を作りました。これも飛騨匠の技の一つです。(飛驒の里・木挽小屋にて)


飛騨国は、森林に囲まれた木の国であり、飛騨匠(ひだのたくみ)の国です。山村の農家にも匠の技が活かされており、家は子孫へと代々引き継がれ、大切に住まわれてきました。


「(飛驒の里に)古民家を寄贈してくださった方は、皆さん気骨のある方ばかりでした。この家を建てた先祖を敬う思いがあって、ずっと守ってきたものを、自分の代でつぶしてはいけない、後世に残したいと託してくださったんです。その思いを長倉先生は深く理解されて、消してはいけない…と尽力されたのでしょうね」


田中さん曰く「奇跡のようですよ」


昭和の高度経済成長期に、跡形もなく消えていたかもしれない飛騨の民家や集落文化が、飛驒の里ではそのまま移築・再現されています。


まさに奇跡ですね。先祖から受け継いだ財産を残そうと力を尽くした人々の思い、深く受け止めました。


【見学体験】飛驒の里を歩く・昔の飛騨人の暮らしに触れる歴史散策 

いよいよ見学です!「飛驒の里」の古民家を通して、昔の飛騨の人々の「生業」と「生活」に触れてみました。

今回は特別に、歴史学芸アドバイザーの田中さんに飛驒の里を案内していただきました。


▲「それでは行きましょうか」と田中さん。国指定重要文化財の建物を中心に巡りました。


①旧田中家(国指定重要文化財)


▲旧田中家。クレ葺き石置き屋根の農家です。高山市街地の北側・冬頭町から移築されました。


この建物は、高山の国学者・田中大秀の息子・茂七郎が住んでいた家です。大秀は、もとは中切町にあったこの家を買い取って冬頭町に移築し、茂七郎に与え、農家として使いました。


江戸中期の建築で、現存するクレ葺きの農家の中では、日本で最も古い建物ではないかと言われています。


▲家の基礎の部分を見ると、柱が石の上に乗っています。これは「束立て」(つかだて)という技法で、柱を直接、礎石の上に立てるという伝統的な工法です。これによって建築年代が分かったそうです。

家の中に入ってみましょう。

まず最初に目に入ったのは、広い土間と囲炉裏(いろり)。ここは家族が過ごす「おえ」という居間で、「土座」(どざ・土間の生活)になっています。


▲旧田中家の「おえ」。囲炉裏の周りにムシロを敷き、ここに家族が集いました。


江戸時代中期、飛騨の農村では、こうした土座(土間のおえ)が家族の生活の場でした。ここで食事をしたりくつろいだりしました。

おえの奥には、生業のための作業場(飛騨では「にわ」という)があります。


▲「にわ」で、夜なべ仕事(脱穀や、わらを編んで草鞋(わらじ)やムシロを作る作業)をしました。

▲ムシロを編むための道具。飛騨の里では、こうした民具も、飛騨の農村文化を伝える貴重な資料として大切に保存されており、昔、人が住んでいた時と同じ状態で展示されています。


飛騨の農家は、家の中に「生業」と「生活」が同居していました。家の中に馬屋(飛騨では「まや」という)があって馬や牛と一緒に暮らし、家の奥には作業場があり、そのかたわらに、生活の場である土座があり、家族みんなで寄りそって暮らしていました。


この旧田中家の建物は、昭和の初め頃まで土座がまだ残っており、あまり改造されていなかったそうです。それが決め手となり、さらに田中大秀に縁がある家ということから、国の重要文化財に指定されました。


「この旧田中家だけでなく、飛驒の里にある建物は全て、移築するときに、最初に建築された当時の状態に戻しています。」と田中さん。


建築業に携わる人が、ここで江戸時代の建築物を見て、家の構造や技法などを学ばれることもあるそうです。


▲旧田中家の屋根。近くで見ると、クレ板が重なり合っている様子がわかります。


農家なので質素なたたずまいですが、建具のデザインや外観がシンプルだけど美しく、大工のセンスのよさを感じさせます。


よく見ると、昔の家には「雨どい」はありません。

雨どいがなくても、屋根から落ちた雨水が家側に飛ばないよう、縁石の高さや位置に工夫があるそうです。


「飛騨では雪で雨どいがすぐに傷みますから。もしかしたら、将来、これを参考に『雨どいのない家』ができるもしれないですね」




②旧若山家(国指定重要文化財)


▲旧若山家。切妻合掌造りの家です。

旧若山家は、もとは荘川村(高山市荘川町)の下滝という地区にありましたが、御母衣ダム建設によって集落が水没するため、高山に移されました。高山への移築・第一号の古民家です。


建築年代は、高山の大工によって「宝暦初年」(1751年)と伝えられてきましたが、移築の際に見つかった建築部材の墨書きや構造手法から、18世紀末ごろ(寛政9年・1797年ごろ)ではないかと考えられています。入母屋合掌から切妻合掌に移行した痕跡を残す貴重な建物です。


旧若山家の入口を見てみましょう。


▲「建物の向かって左側が『家族が生活する場』で、右側は『生業のための場』です」と田中さん。昔の農家は「暮らし」と「作業場」が共存していました。


生業エリアをのぞいて見ると、すぐ目の前に「馬屋」がありました。


家の中で動物を飼っていると、臭いが大変ではないですか?


田中さん曰く「5分で慣れます」とのこと。


当時の農民にとって、馬や牛は大切な家族でした。外で飼うと冬は寒いし、盗まれる心配もあるので、同じ屋根の下で一緒に生活しました。


「(大事な家族だから)牛肉は食べないと言う人が、昔はいましたね」


馬や牛は、農家の生業を支える貴重な存在だったため、現代の人々が想像する以上に、特別な思い入れがあったそうです。


そして、入口すぐのところにある「半円状のふた」に注目です!


▲観光客の皆さんは、気づかず素通りしていきますが…。

▲さて何でしょう?

「これ、家の中のトイレです。こちらは汲み取り口です」


えっ!?


▲戸を挟んで裏側には便器がありました。小便器です。

これは小便器で、男性だけでなく、女性も用を足していたそうです。(もちろん今は使えません)


昔の農家のトイレは、家から離れた場所にありましたが、若山家も当時はそうでした。「便所」もしっかり飛驒の里に移築されていました。


▲旧若山家の便所。人が使っていた当時と同じ状態で、家の横に移築してありました。(こちらも今は使えません)

昔の農家の「生業」に最も必要なものといえば「下肥」(しもごえ)です。下肥とは、人間の糞尿を発酵させて作った肥料で、戦後の高度経済成長まで、日本の農村では普通に使われてきました。


若山家は、荘川村の名士で、家族や使用人など大人数で暮らしていました。そのためトイレも大きな造りになっています。便槽も大きく、そこに山で刈った下草を入れて糞尿を発酵させたそうです。


「今の時代は、どこも化学肥料ですが、もしかしたら近い未来、また下肥を使う時代が来るかもしれません」


そうですね。いつまでも原料となる石油があるとは限りません。


人が生きていく上で絶対に避けては通れない「排泄」。これを生業の資源として活用した昔の人々の知恵と工夫。また脚光を浴びる時が来るかもしれませんね。




③旧田口家(国指定重要文化財)


▲旧田口家。建築当初はクレ葺き屋根でしたが、現在は鉄板葺きになっています。


旧田口家は、下呂市金山町卯野原から移築された家です。江戸時代中期(文化6年・1809年ごろ)に建てられました。


金山町は飛騨地方の最南端にあり、飛騨国と美濃国の境で、雪があまり降らない温暖な地域です。


そのため、雪深い北飛騨の建物と異なり、どこか開放的で優美な雰囲気があります。


▲玄関先から家の中をのぞいてみると…。土間の広さと立派な梁に「おぉー!」と思わず感嘆の声が出ました。


▲きれいに磨かれた板の間。その奥には畳の間があります。

美しくて品格がある室内。ただの農家ではない、特別な感じがしますが…。


「これは名主(なぬし)の家です」


名主とは、江戸時代、村の代表を務めた家です。地主でもあり裕福でした。広くてたくさん部屋があるのは、村の寄り合いがここで開かれたためです。


また、名主の家は、代官や郡代、江戸幕府が地方に派遣した役人・巡見使(じゅんけんし)の宿泊所としても使われました。そのため、位の高い役人をもてなせるよう、座敷を品よくしつらえています。


同じ農家でも、今まで見学した家とは、内部の様子が全然違います。なんだか高山の町家と似た雰囲気です。でもよく見ると、土間の横には馬屋があり、やっぱり農家なんだなぁ…と気づきます。


と、ここで「どうぞ腰かけてください」と田中さん。


▲田中さんと座ってみました。

「お客さんが来ると、こうやって腰かけるんですよ。はき物を脱がずにここで腰かけて、ちょこちょこっと話をするのが長話になってね(笑)」


そして、すぐ横の囲炉裏を指さし「その時、家の主人は、そこの横座(囲炉裏の正面奥の上座)に座っているんです」


この囲炉裏、上り框(あがりかまち)に接するように造られていますね。


▲旧田口家にある三つの囲炉裏のうちの一つ。土間ギリギリまで来ています。


「ここに囲炉裏があると、お客さんが来て座った時、暖かいんですよ。これ(囲炉裏)が奥の方にあると暖かくないので。高山の料亭・洲さきも、こんな感じで囲炉裏がこの縁まで来ています」


なるほど。暖かくて居心地がいいから、ついつい長話になってしまうという訳ですね(笑)


昔はこんな感じで、「ござるかな」(飛騨弁で「居ますか?」の意味)と言いながら土間に入って来て、ひょいと腰かけ、世間話に花を咲かせるご隠居さんがいましたね。


もう今は見かけなくなった、飛騨の懐かしい光景です。




④旧吉真家(国指定重要文化財)


▲旧吉真家。入母屋合掌造りの家です。

旧吉(よしざね)家は、飛騨北部の河合村(飛騨市河合町)の角川から、ここに移築されました。江戸時代中期の安政5年より以前に建てられたことがわかっています。


実はこの安政5年(1858年)に、飛騨北部と富山県で、マグニチュード7を超える巨大地震「角川地震」(飛越地震)がおきました。


全滅した集落があるほど甚大な被害が出ましたが、この家は地震に耐えて無事でした。そこで地震の後、吉真家の当主が、当時、河合村保にあったこの家を買い取り、解体して角川に移築したそうです。


大地震にも耐え、北飛騨の豪雪にも耐えた抜いた丈夫な家です。



この日、吉真家の縁側では「有道しゃくし」(うとうしゃくし)の実演が行われていました。


▲高山市久々野町「有道しゃくし保存会」の牧野泰之さん

有道しゃくしは、昔、高山市久々野町の有道地区で作られていた手彫りのしゃくしで、随筆家・白洲正子さんが「杓子の中の王様」と紹介した逸品です。


有道の集落は、過疎化のため無くなりましたが、久々野町の有志の皆さんが保存会を立ち上げ、技術の伝承と後継者育成に努められています。


▲有道しゃくし

牧野さんにお聞きしたところ、火曜日・木曜日・土曜日に、ここで有道しゃくしの製作実演・販売を行っているそうです。



それでは、旧吉真家の中に入ってみましょう。

▲旧吉真家の入口。右側には馬屋があります。


入って早々、屋内の上部・左右側面の四隅の柱に注目です!


▲「向かうので、むかい柱といいます」と田中さん。


柱の上部が、家の内側へななめに突き出ていて、その上に桁(けた)や梁(はり)が乗っています。これは「のぞき柱」(「むかい柱」とも言う)という技法で、上部の曲がった柱の頭が、上屋の構造材を受ける形になっています。


ふつうは上屋と下屋の構造柱を別々に立てるのですが、この家は、下屋部に曲がった柱を立て、曲がった上部で、上屋を構成させています。


▲のぞき柱(むかい柱)。栗の股木を使っているそうです。

こうした造りの家は、飛騨北部(飛騨市古川町・河合町・宮川町、高山市国府町)で多くみられるそうです。


「入母屋造りの家は、庇(ひさし)があるので、その分構造的に丈夫で強いです。さらに、のぞき柱があることで、地震にも強かったんです」


だから安政の角川地震にも耐えたんですね。


だけど、他の家も同じように「のぞき柱」で建ててあると思うのですが、どうしてこの家だけが無傷で残ったのでしょうか?


「おそらく、いい材が使われていることと、大工の腕がよかったのでしょう。大工の技量が他と違っていたんだと思います。あと、土台もしっかりしています。土台の工事もきちんとしてあって、それが良かったんでしょうね」


なるほど。やはり「良材」と「いい大工」、そして大工の腕を信じて好きなようにやらせてくれた「施主」、この三拍子がそろった賜物なんですね。


160年以上昔に建てられた江戸時代の家が、厳しい自然環境や天災地変を乗り越えて現存し、今もこうして見て触れることができる…。考えてみたら、これってすごいことです。


▲旧吉真家のおえ(囲炉裏のある居間)。重厚な雰囲気です。


先祖が建ててくれた家に住み続け、生業に励み、日々の暮らしを守りながら、ここで家族の歴史を紡いでいく…。飛騨の里で古民家に入ると、この家の人々が残した「息づかい」が感じられます。


旧吉真家のおえの囲炉裏端にも、かつての家族の思い出がいっぱい詰まっているのでしょうね。




⑤旧前田家(県指定重要文化財)


▲旧前田家。クレ葺き屋根の家です。

これは、上宝村(高山市奥飛騨温泉郷)神坂の豪農・前田家の家で、明治32年(1899年)に、高山の大工によって建てられました。飛騨の里の他の家と比べると新しいです。


家の外観が、現在も高山市郊外でよく見られる古い民家と似た形をしています。

大屋根が前にせり出ていて、その下に「持ち送り」(腕木)がついており、新しい時代の建物であることがわかります。


中に入ると、おえ(囲炉裏のある居間)があり、畳が敷いてありました。


▲家族がくつろぐ場なので、ヘリがない畳が敷かれています。

「おえ」の横には、「でい」と呼ばれる座敷がありました。「でい」とは、冠婚葬祭など「ハレ」の場で使われる仏間や床の間のことで、普段は使いません。結婚式や法事、例祭など、人々が集う特別な時に用いました。


▲旧前田家の「でい」。ふすまで分けられる部屋が6つあるので「六つでい」と呼ばれました。

旅館の大広間のような広さです。


「ふすまを全部払うと、ここに100人くらい入ります。ここで結婚式などをやりました」


そういえば、昔、平成の初め頃の話ですけど、私の知人が結婚したのですが、集落の旧家の跡取りだったそうで、昔のやり方で披露宴を自宅の座敷で3日間かけて行ったと聞きました。1日目は身内だけで、2日目は仕事関係や大事な人を呼んで、3日目は近隣の人を呼んで。今は結婚式場でやるのが普通ですが、昔は家だったんですね。


「高山でも昔はそうでしたよ。私の隣の家も、雨戸を閉めて『まだ夜が明けていない』と言って、ずっと酒を飲み続けて、2日間かけて(披露宴を)していました。時々、三味線の音が聞こえてきてね」


あぁ何だか目に浮かびます。


今はやらない家が増えましたが、お祭りの「呼び引き」もそうでしたよね。


昔の飛騨人たちは、ハレの日に集まり、わいわい酒を飲んで、ごちそうを食べる。これが唯一の楽しみでした。


この「六つでい」の間で、人々が泣いたり笑ったり…。様々な出来事が、ここでたくさん繰り広げられてきたのでしょうね。




以上で、「歴史学芸アドバイザーさんの解説付き歴史散策」は終了です!


見学中、私は亡き祖父母のことを思い出しました。明治生まれの祖父母は、若い頃、北飛騨の山奥で炭焼きをしていたそうです。「私が生まれる前は、こんな暮らしをしていたんだろうな…」とあれこれ想像したら、胸が熱くなりました。


厳しい自然の中で、たくましく生きてきた昔の飛騨の人々は、本当にすごいです。


また、これらの建物の保存に尽力された皆様に、心から感謝したいと思いました。



<田中さんからのメッセージ>

田中さん
飛驒の里は、建物と自然が融合していて、歩くだけで心が癒される野外博物館です。
建築年代など歴史の知識をただ受け止めるのではなく、自由に訪れて、自由な気持ちで「私はここが気に入った」「ここが好き」など、そういう感動を自分で作ってもらうと楽しいと思います。
そういう点で、ここは「自分の物語」を作れる場所です。そのための素材はいっぱいあるので、ぜひ、ここで自分の世界を見つけ、自分だけの物語を作ってみてください。
田中さん

最後に

「飛驒の里」特集、いかがでしたか?


この記事では標準語での会話にしてありますが、実は田中さんとは、終始「飛騨弁」でお話しました。


飛驒の里の中で、一番好きな建物は何ですか?


…と、最後に田中さんにお聞きしたところ、「そやなぁ…」と少し考えて「やっぱり田中家やね」とのこと。


「親戚ではないけど(笑)」


と、軽く冗談を交えつつ(笑)


「基本的な飛騨の農家の建物で、江戸中期で古い建物やし。あと、昔のうちの建物と同じ(クレ葺き石置き屋根)やで愛着があるね」


高山訛りの温かみのある飛騨弁で、そう語ってくださいました。


同じ飛騨弁でも、地域によってアクセントやイントネーションが微妙に違っているように、建物の形も、自然環境や人々の生業によって異なるということを、今回の取材を通して学びました。


いにしえの飛騨の雰囲気を味わえる、飛驒の里。飛騨はもとより「日本の原風景」が味わえる飛驒民俗村に、是非お越しください。


▲田中さん、ありがとうございました!(旧前田家の縁側にて)

シモハタエミコ
今回は特別に田中さんに案内していただきましたが、通常はボランティアガイドや学芸員さんが館内ガイドを承っているそうです。希望される方は、スケジュールの調整があるため、事前(数日前)に飛驒の里にご相談ください。
シモハタエミコ

【お土産にいかが?】飛驒の里のおすすめグッズ&周辺ショップ

飛驒の里の管理事務所(内側)は、売店コーナーになっています。


▲管理事務所の売店コーナー。この建物も、白川郷から移築されたもので、合掌造りとしては一番小さい民家です。


ここで人気のグッズをご紹介します!


①飛驒の里オリジナルさるぼぼ

▲ここでしか手に入らない飛驒の里さるぼぼ。旅の思い出に、購入される方が多いそうです。

②御朱印・御城印

▲飛驒の里内にある匠神社の御朱印と、松倉城・高山城の御城印です。日本人観光客だけでなく、インバウンドのお客様にも大変人気だそうです。

③ポストカード

▲飛驒の里のポストカード。外国人観光客に人気です。

④飛騨の里スタンプ帳・飛騨の里物語(ガイドブック)

▲「飛驒の里スタンプ帳」を購入し、館内の各所にあるスタンプを押して回り、コンプリートすると記念品がもらえます。外国人観光客に人気だそうで、取材中もスタンプラリーをしている人を見かけました。その下の「飛騨の里物語」は、館内の建物について解説した冊子です。

⑤牧成舎のアイスもなか

▲明治30年創業の飛騨古川の牛乳屋さん「牧成舎」のアイスもなか。こちらも外国人観光客に人気だそうです。


館内には、この他に、飲み物や甘味を販売しているお店もあります。管理事務所の近く、五阿弥池のほとりにあります。


▲お店の様子。近くに東屋(あずまや)があるので、一休みするのにぴったりです。



飛驒の里の外にも、魅力的なお店がいろいろあります!

『「飛驒の里」周辺の見どころ紹介!ランチ・お土産スポット』SAORI(高山市民ライター記事)


見学を終えて帰路につく前に、立ち寄られてはいかかでしょうか。



また、飛驒の里通りを歩くモデルコースもあります。

『散策・買い物・グルメに猫!なんでも楽しめる「飛驒の里通り」で一日満喫する日帰りモデルコース』(飛騨高山観光コンベンション協会)



その他、「飛驒の里」と「飛騨高山美術館」のお得な共通入館券も、各館窓口で販売していますので、ご利用ください。※詳細はこちら


▲飛驒の里通りから見える飛騨山脈(2025年11月)

ぜひ参考にしてみてください!

参考文献・協力

<参考文献>

・「紀要 飛騨民俗学十周年記念号」 飛騨民俗学会(平成7年・1995年)

・「飛驒の里物語」飛驒民俗村


<協力>

飛驒民俗村・飛驒の里

ライタープロフィール

シモハタエミコ
生まれも育ちも飛騨高山。生粋の飛騨弁ネイティブです。お車だけでなく公共交通機関で高山に来てくださった方も楽しめる観光情報を中心にお伝えします。また、ニッチなお散歩コースもご紹介します。
私のお気に入りは、旧田口家と旧吉真家です。飛騨の南端と北端にあった建物ですが、重厚で品格ある雰囲気がクールで素敵だなぁと思いました。
シモハタエミコ

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