HIDABITO 024 有限会社なるせトラン・ブルー オーナーシェフ 成瀬 正 氏、裕子 氏

HIDABITO 024 有限会社なるせトラン・ブルー オーナーシェフ 成瀬 正 氏、裕子 氏

「地方でキラリと光る店を」と夢を掲げ、夫婦で歩んだ30余年。世界が認める高山のブーランジェリー

地方都市でも高い技術力や接客を発信できるパン屋さんめぐりを高山の新たな楽しみ方に

開店時間の30分前にも関わらず、店の前にはすでに7~8組ほど行列ができていた。「神戸から車で6時間かけて来たんです」。聞くともなしに最前列の客の声が耳に届き、あらためて全国から客が訪れる店なのだと実感する。トラン・ブルーの名を一躍有名にしたのは、2005(平成17) 年、ベーカリーのワールドカップとも言うべき「クープ・デュ・モンド・ド・ラ・ブーランジェリー」で世界3位に輝いたときのことだ。オーナーの成瀬正さんが手にした栄冠だが、その陰には妻である裕子さんの支えがあった。


「お店を創業した1989(平成元)年に結婚しました。高山がどこにあるのか、冬は寒いってことも知らずに嫁いできたんです。しかも嫁ぎ先は商売屋さんで義理の両親と同居。私は東京の損保会社でOLをしていたんですが、同僚からは絶対辞めたほうがいいよって言われて。愛だけでついてきました(笑)」


朗らかな笑顔は一瞬で場を和ませる力がある。裕子さんはまさにそういう女性だ。




夫の正さんは創業は1912 (大正元)年のパン製造会社の4代目。長年、学校給食の卸業を担ってきた「なるせ」は高山で絶大な知名度を誇るが、学生時代の正さんはその家業を継ぐつもりはなかったと言う。


「量産されるパンに面白みが感じられなくてね。どこにも就職できなかったときの逃げ道くらいに考えていたんです。それが東京の大学で体育会系の部活動に打ち込む中、3代に渡って地域で信頼され続ける家業にふと畏敬の念が湧いて。じゃあ自分は何をすべきだろうと考えたら、本物志向のパンを学んで老舗に新しい風を入れながら歴史を守るのがいいと思い立って、パン屋に就職したんです」


だが、周囲の目は冷ややかだった。


「取引先の銀行や父の友人たちから『東京と同じものが高山で通用するか』『そんな修業は無駄だ』と散々聞かされました。あんまり言われるから、品質も値段も東京と変わらないものを持ってきたらどうなるんだろうと思ってね。わずかな資金で高山に会社を立ち上げ、工場の片隅を借りて今人気の高級食パンに似たものを作ったんです。そして新聞の折り込みチラシで『トラン・ブルーのバンができました』とPRしたわけです。チラシは折ると封書になって投函できる様式にして裏面にはアンケートを設け、週3日以上バン食と回答くださった方に500本無料で配って契約を取る一そこから始めました」


画期的な販売スタイルは高山の人々を驚かせたに違いない。MAX1200軒まで契約を取り付けると、トラン・ブルーの名も広まっていった。そんな綿密な下準備の甲斐もあり、開店当日は100m先の橋まで行列ができた。


「オープンから3日は混雑したけれと、以後ずっと売上は伸び悩みました。2年目の夏なんて暇で暇で。私は掃除と水まきばかりしていました。オープン当初は喫茶店と間遵えて入ってくる人も多かったですね(裕子さん)」



それでも徐々に客足を伸ばしたが、軌迫に乗り始めた5年目、トラン・ブルー存続の危機が訪れる。


「親父に肺がんが見つかり入院2ヶ月で急逝したんです。親父63歳、僕が33歳のときでした。そこで初めてなるせの帳簿を見て愕然としました。借入金が莫大で、これは潰れると。でも何から手をつけたらいいかわからず、考えあぐねるうちに店に出られなくなった。道路挟んだ向かい側の自宅から店まで、片側1車線、10mの道が渡れなくなってしまった」


塞ぎ込む正さんに喝を入れたのは、他でもない裕子さんだった。


「朝からコタツで横になってるから、何やってんの?早くお店に行きなよって。あの頃の私は返済額の大きさを全然理解できていなかった。だから悲観的にならず、主人に言えたんだと思います。今だったら頁っ肯よね(笑)」


何車も思慮深い正さんだが、このときばかりは妻のおおらかさに救われた。裕子さんに背中を押され、なんとか厨房へ戻ると解決策を探った。


「学校給食のない春、夏、冬の休みは、なるせは開店休業状態。一方でトラン・ブルーは季節の休みごとに観光客で賑わうーならば相互で補完し合えるじゃないかと。二社を合併して経営の立て直しを図ったんです」




それから正さんはますますパンづくりに邁進し世界的な賞を獲得するのだが、病に倒れ半身不随となった母を十余年に渡り介護してくれた内助の功だと要への感謝の思いを忘れない。その母を見送り、子どもたちも成人し、父の残した負の遺産も25年かけて無軍完済した。


「彼は本当によく働きましたよ。地方だからこの程度でいいなんて妥協することなく、高い技術を持ったパンを知ってもらうために必死で頑張ってきました。今、高山に良いバン屋さんがたくさんあるので、パンMAPを作りたいんです。それが地域の業界の発展につながれば」


創業から33年。その年月は夫婦が歩んだ時間でもある。そして見据える先は共に業界の未来だ。


「地方のパン屋でも世界で戦える技術力があると証明すれば業界の底上げになる一そんな思いでやってきました。うちで修業した卒業生がそれぞれの土地でしっかり根を生やし、地域に愛される店や人になってもらいたいですね」


この春、東京で修業をしていた長男が戻り、厨房に入った。トラン・ブルーの新たな幕が開ける日もそう遠くない。




社名トラン・ブルー
住所岐阜県高山市西之一色町1丁目73-5
電話0577-33-3989
公式サイトリンクhttps://www.trainbleu.com/





次に読みたい特集

ページトップへ