【高山歴史散策】 江名子町を歩く・東山遊歩道の隠れスポットを探索
高山市江名子町をご存じですか?
江戸時代の寺社が連なる東山寺町の南隣に位置し、「東山遊歩道」のコースにも入っている町です。
この町には「江戸街道」が通っており、町内には今も数多くの史跡が残っています。しかし、東山寺町ほど観光的にメジャーではないため、高山市民にもあまり知られていないのが実情です。
そこで今回は、江名子町にスポットを当てて、東山遊歩道のエリアを中心に、この町の歴史とその魅力についてご紹介します。
東山遊歩道と江名子について
飛騨高山・観光ビギナーさんのために、まずは東山遊歩道について解説します。
▲東山遊歩道の一角(宗猷寺町)
東山遊歩道とは、市街地の東端にある寺町を歩いて回る、全長約5.5kmの散策コースで、おもに「空町(そらまち)」と呼ばれる高台の一帯を歩きます。
古い町並のような賑やかさはありませんが、市街地の喧騒から離れて静かに散策できるので、寺社巡りや歴史好きの観光客に人気のコースです。
ここで高山の歴史を少し説明しましょう。
戦国時代、飛騨国を統治した金森長近は、現在の高山市の町並みを作ります。この時、空町地内の一端にある城山に「高山城」を築き、そのふもとに金森家家臣の武家屋敷を置きました。
さらに空町の東側の山裾には、神社や寺院を建築または移築し、京都の東山のような寺町を形成していきました。
▲金森家六代・頼旹の頃の高山の地割(「東山遊歩道」パンフレットより)
時が流れて江戸時代中期、飛騨国が江戸幕府直轄地(天領)になると、高山城は破城となり、空町の武家屋敷も壊されて畑になります。やがて畑に民家が建てられ、庶民が暮らすようになり、今の空町の風情が築かれていきました。
このような歴史的背景から、空町地区は「古い町並」の三町地区とは異なり、どこか昭和風のノスタルジックな雰囲気を漂わせています。
そんな空町地域の東山寺町を歩き、神社や寺院、江戸時代の名残が残る各史跡を巡るのが「東山遊歩道」です。
近年、このエリアは欧米系の外国人観光客に人気があり、高山の文化と歴史に触れながら思い思いに散策を楽しまれています。
▲東山遊歩道の北端、雲龍寺の山門(若達町)
「東山遊歩道」といえば、東山寺町の寺社めぐりというイメージが強く、東山寺町の北端「雲龍寺」から南端「宗猷寺」までの区間が有名ですが、宗猷寺よりも南方の「江名子町」も、東山遊歩道のコースの一部に含まれています。
▲「東山遊歩道」のパンフレットより。地図の右上・江名子川より上部の地区が江名子町です。
江名子町について深掘り!地理と歴史について
散策に出かける前にちょっと予習をしておきましょう。江名子町の位置と地名の由来について解説します!
▲「飛騨高山ぶらり散策マップ」より。地図の右上・赤丸で囲った箇所が、今回ご紹介するエリアす。
◆江名子の地理
江名子町は、高山エリアの南東に位置し、江名子川の上流にあたります。
高山城下町の南東側から、国道361号線の久々野町との境までと、かなり広範囲にわたっています。そのため、現在の江名子町は、下江名子町(東山寺町側・北側)と上江名子町(南側)に大きく分けられています。
<江名子の地図>
そのなかでも、下江名子町のエリアには「江戸街道」が通っており、下江名子町と宗猷寺町(東山寺町の南端)の境から、荏名神社までの区間が「東山遊歩道」のコースに指定されています。
※江戸街道については、こちら↓の記事をご参照ください。
『【江戸街道をゆく】朝日町・高根町の旧街道を深掘りする歴史探訪with飛騨関連資料botさん』シモハタエミコ(高山市民ライター記事)
◆江名子の地名の由来
「江名子」の地名の由来については、幕末の高山の地役人・富田禮彦(とみたいやひこ)が著した『斐太後風土記』(明治6年成立)によると、次のように記されてあります。
「荏(エ・「えごま」のこと)を生育するのにふさわしい土地だったので、古代には「荏野(えの)」と呼んでいたことによる。その荏野の奥にある集落なので、『荏野奥(えのおく)』という言葉がなまって、江名子(えなこ)と呼ぶようになった。」と。
荏野という名が付くところから想像できるように、かつては田畑が広がるのどかな地域でした。
▲江戸時代末期の江名子。「斐太後風土記」より
また、城山のふもと側から荏名神社の辺りまでの地区は、字(あざ)名が「石切場」といい、昔、高山城を築城した際の石切り場だったようです。
江戸時代中期、高山の地役人・上村木曽右衛門が著した 『飛騨国中案内』によると、江名子村の石切場について「高山城の普請(土木工事)があった時には、この場所に大きな石を集めて、石を切った」と記されています。
時が流れて昭和時代。戦後の高度経済成長期に入ると、江名子町は宅地化が一気に進み、新しい住宅が増えました。
それでも町内の各地には、古くからの史跡旧跡が数多く残っており、伝承や伝説と合わせ「町の財産」として、地域の人々によって大切に守り継がれています。
▲江戸街道のあだち坂(江名子町)
▲錦山神社前の「東山遊歩道」道案内
それでは、これより江名子町の歴史スポットをご案内します!
錦橋とあだち坂
いよいよ江名子町・歴史散策のスタートです!まず始めに、江名子川にかかる錦橋(にしきばし)へ。次に江戸街道の入り口・あずま坂をご紹介します!
飛騨高山まちの博物館の横にある「えび坂」を登って少し進み、途中、飛騨米穀・城山営業所の角を右に曲がって、城山を右方に感じながら直進すると、左手に朱色の橋が見えてきます。「錦橋」といいます。
▲錦橋。橋のこちら側は春日町(旧日影町)、橋を渡ると宗猷寺町。まっすぐ進んで右に曲がると江名子町です。
江戸時代からこの場所にかかっている橋で、古くは「綿橋(わたばし)」または「呉服橋」と呼ばれていました。
長らく木製の橋でしたが、老朽化に伴い、昭和40年(1965年)にコンクリート製の永久橋にかけ替えられ、その後、昭和60年頃に拡張工事が行われ、現在の「擬宝珠(ぎぼし)がついた朱塗りの橋」になりました。
実はこの錦橋は、江戸街道の高山側の最初の橋であり、江戸時代、高山で肴(さかな)問屋をしていた豪商・川上家が、肴屋の営業を独占する代わりに、江戸街道に通じるこの「綿橋」(現・錦橋)の普請(ふしん)を請け負い、橋の架け替えや修復の費用を永続的に負担しました。
川上家は、この錦橋以外にも、越中街道に通じる「板橋」(現・布引橋)の橋普請も行っています。
▲錦橋のたもとにある秋葉様。「日影町の秋葉様」と呼ばれています。
錦橋のたもとにある、この秋葉様側の地区(江名子川と城山に挟まれた地区)は、現在は「春日町」ですが、昔は「日影町」といいました。戦前まで、この町の人々が当番制で「日影町の秋葉様」の常夜燈に火をともし、火の用心を祈願されたそうです。
▲錦橋から眺める江名子川の様子
錦橋を渡って、そのまま真っすぐ進むと、「東山遊歩道」の看板と共に、山裾へと入る細い道が見えてきました。これが「江戸街道」です。
▲江戸街道の入り口
これより江名子町に入ります。
鍵の字に曲がった道を進むと、ゆるやかな坂道に至りました。「あだち坂」といいます。
▲あだち坂の様子
▲坂の上り口に設置されている「あだち坂」の説明書き
昔、地元の人たちは、この坂を「あったん坂」と呼んでいたようです。正式名は「足立坂」といい、昔、あだち坂の入り口に、足立屋久五郎という人物が住んでいたことから、足立屋の屋号をとって「足立坂」と呼んだと言い伝えられています。
<錦橋とあだち坂の場所はこちら>
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錦山神社(にしきやまじんじゃ)
高山市民の間では「例祭の獅子舞」でその名が知られている錦山神社ですが、この神社の由緒を調べてみたら、非常に興味深い伝承が出てきました。そんな錦山神社について詳しくご紹介します。
あだち坂を真っすぐ進み、山沿いの道をそのまま歩いて行くと、左手に社号標と鳥居が見えてきました。「錦山神社」です。
▲江戸街道と錦山神社
江戸街道沿いに鎮座し、昔から地域の人々の崇敬を集めてきました。しかし、観光パンフレットには掲載されておらず、詳細はあまり知られていません。
▲錦山神社の参道と鳥居
錦山神社の祭神は、物部守屋大連命(もののべもりや おおむらじのみこと)・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)です。
倉稲魂神とは、稲荷神社のご祭神として広く信仰されている神様で、錦山神社の境内には「錦山稲荷神社」が祀られています。
この神社の由緒は以下の通りです。
錦山神社の主神「物部守屋」(もののべ の もりや)は、日本の古代史に登場する人物で、名前にの後ろについている「大連」(おおむらじ)とは、大和朝廷時代の役職名です。
用明天皇の時代(西暦587年)、都では崇仏派と排仏派の対立が勃発し、仏教渡来に反抗していた物部守屋は、蘇我馬子ら仏教信者の崇仏派と激しく闘いますが、守屋は討たれて排仏派は敗北。物部氏は滅ぼされてしまいます。(【丁未の乱】ていびのらん)
しかし、守屋の一族の中に、追手から逃れて飛騨国の江名子に流れ着いた者がいて、現在の錦山神社の裏にある洞に隠れ住み、守屋大連の御霊を奉祀したそうです。そのため、この洞は「守屋ヶ洞」(もりやがほら)と呼ばれました。
やがて、永禄年間(1558年~1570年)、当時の江名子の領主・畑氏の家人だった菅源左衛門の娘が難病にかかり、その病気平癒を祈願したところ、大神の霊験によって完治したことから、守屋ヶ洞に祠を建てて崇拝しました。これが、この神社の始まりと言われています。
金森時代の古い地図には「守屋宮」または「守屋社」という名称で記されています。
▲錦山神社の拝殿
やがて、慶長年間(1596年~1615年)になると、高山城主・金森二代可重(ありしげ)が、山城国(現在の京都府南部)にある「伏見稲荷」を勧請して、守屋宮の近くに、飛騨稲荷宮の総社を創建します。
当時、守屋宮の近く、錦山のふもとには「金剛院」という当山派(真言系修験の宗派)のお寺があり、修験者(山伏)が修行をしていました。
稲荷大明神ができると、この金剛院が別当となります。そして、金森可重より「天下泰平国家安全・五穀成就蚕飼満足」の祈りを捧げ、春秋の例祭を怠ることなきよう…と命じられます。
▲江戸時代中期・天領時代の高山の様子。「守屋」と「イナリ」(稲荷)の文字が見られます。(『飛州志』より)
江戸時代の後期になると、庶民の間で信州の善光寺参詣が盛んになり、高山からも多くの人々が江戸街道を通って信濃国(長野県)へと向かいました。
この時、善光寺詣に出かける人々の間で、この神社の前を馬や駕籠に乗って通ったり、小便をしたりすると、かならず守屋の祟(たた)りに遭うという噂が流れ、怖がった人々が皆、日影町(現在の春日町)の道を通行した…ということが、『斐太後風土記』に記されてあります。
▲錦橋の秋葉様のところが「江戸街道」と「日影町ルート」の分かれ目でした。日影町ルートは、明治時代まで橋が無かったため、山王峠を越えて、かなり迂回して江戸街道に入ったそうです。現在は、春日町を通って日影橋を渡り「荏名神社」の前で江戸街道と合流することができます。
また、守屋ヶ洞の子孫の農民や町の氏子たちが、法師(金剛院の山伏ではないかと思われる)にたぶらかされて、「守屋」の社名は不吉だと忌み嫌い、「稲荷神」にした…ということも、『斐太後風土記』に記されています。そのため、「稲荷宮」や「下稲荷」と呼ばれることがありました。
江戸から明治へと時代が移り変わると、明治3年(1870年)、守屋宮と稲荷社は合祀されて「錦山神社」と改称し、現在に至っています。
▲錦山稲荷神社。錦山神社の拝殿の左横にあります。
▲境内にある大スギ。推定樹齢は400年、高山市の天然記念物に指定されています。古くから「天狗様(神様)が住む御神木」として、地域の人にが崇められてきました。
▲拝殿前から眺める風景。正面に見える山は「城山」です。
『斐太後風土記』の注釈によると、明治8年(1875年)乙亥(きのとゐ)の11月、信濃国(現在の長野県)伊奈郡藤澤村から守屋源三氏という者が訪れ、「藤澤村には守屋神社が鎮座しており、102戸の氏神様で、氏子の中には"守屋"という姓の者が82戸もある」と語ったとのこと。
(この出来事から)『日本書紀』には、物部守屋の子や一族は、葦原に逃げ隠れ、姓を改め名を変えて、逃げ散ったので行方が分からなくなった(兒息眷属、迯亡不知所向)と記されてあるが、そのうちの一人が、この錦山の麓に隠れ住み、別の一人は信濃の藤澤村に身を隠したということなのであろうか。高山の氏子の先祖たちもまた、「母理野(もりや)」という名を読み違えて、「森野(もりの)」と名前を変えたのであろうか。…との推測が『斐太後風土記』の中に書き加えられています。
一見、穏やかな鎮守の杜ですが、その歴史を深掘りしてみたら「物部守屋」という裏古代史に触れるような伝承があり、今も真相は錦山の深い藪の中に眠っている…という感じです。いやー驚きました。ディープな歴史に感嘆しました。
<錦山神社MAP>
荏名神社(えなじんじゃ)
江戸時代の高山の国学者・田中大秀が再興した神社です。大秀翁の美的センスが随所にちりばめられた境内を、じっくりご紹介します。
錦山神社を左手に、山沿いの道をさらに進むと、県道462号線との合流地点に出てきました。
▲この先、三叉路(県道462号線との合流地点)に突き当たったところで、左に曲がります。
合流後、左折してそのまま直進すると、県道の向こう側に鳥居が見えてきました。あれが「荏名神社」です。
▲正面に見えるのが荏名神社の鳥居。この県道は交通量が多いので、横断する時は安全に充分お気を付けてください。
▲荏名神社
祭神は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・荏名大神(愛那能御神)(えなのおおかみ)です。
この神社の由緒は以下の通りです。
創祀は未詳。平安時代中期の『延喜式神名帳』には、「飛騨國大野郡荏名神社」と記されてありますが、その後荒廃し、この辺りは子安観音の祠(ほこら)や巨岩があるのみで、「稲置森」(いなぎのもり)と呼ばれていました。
江戸時代の高山の国学者・田中大秀は、荏名神社の廃頽を悲しみ、再興を決意。延喜式に定められた飛騨八社の内の一社であったことを考証し、稲置森が荏名神社の旧跡であることを確かめます。
文化14年(1817年)、大秀は稲置森の神域を整備して社殿を再建し、境内のかたわらに「千種園 賞月榭(ちくさぞの しょうげつしゃ)」と称する邸宅を建てて移り住み、自らを「荏名翁」と号して神主を務め、祭祀をとりおこない、学者としても後進の育成に励みました。
大秀は多くの功績を残しつつ、弘化4年(1847年)9月16日、この地で没します。墓所(田中大秀墓)は荏名神社から1㎞ほど離れた江名子町内の小丘にあり、生前の大秀によって「松室岡(まつむろおか)」と名付けられました。この墓所の小円墳の形をしたお墓の中に、大秀は眠っています。
◆
さて、荏名神社の境内に入ってみましょう。
参道を歩いていると、小さな橋が見えてきました。「神橋(しんきょう)」といいます。
▲神橋と史跡の標柱。標柱の後ろの古い石標には「不許汚穢不浄之輩入境内」と刻まれてありました。
橋は境内を流れる江名子川にかかっており、田中大秀が設計しました。この橋の図面(天保15年12月設計)が今も残っています。

▲石造りの橋台と梁は、昔のままです。
ご覧の通り、橋台の上部から長形の石材が上方斜めへと突き出ていて、この上に2層の梁を結合させて、最上層に桁(けた)を渡してあります。撥ね橋(=はねばし・城門によくみられる可動の橋)としては、構造的に大変貴重なものなんだそうです。
大秀の晩年時は石の桁だったそうですが、明治時代の大水で流出してしまい、現在は板の桁になっています。
神橋を渡ってさらに奥へと進むと、二の鳥居の手前で、堂々とした隷書体の社号標を見つけました。
▲「荏名神社」と刻まれた碑の下を見ると、台石は「亀」!大秀翁は亀が好きだったそうです。
この社号標は、第18代飛騨郡代・芝与市右衛門正盛が、文政元年(1818年)に奉納したものです。
▲裏の文字も、均整のとれた美しい隷書体です。江戸時代の高山の書家・岩佐一亭の書だそうです。
鳥居をくぐると、視界が開けて明るくなりました。
▲まずは拝殿でお参りして神様にご挨拶。
▲昭和14年に奉納されたという狛犬様。目力が強くてかわいいお顔です。
お参りを済ませた後は、境内を散策してみましょう。
ふと、鳥居の横にある、注連縄(しめなわ)がはられた大きな岩が目に入りました。これが、荏名神社が再建される前に「稲置森」にあったという巨岩でしょうか。
▲霊験あらたかな雰囲気を醸し出していました。
さらに巨岩の右奥を見ると、美しくて品のいい土蔵が見えます。荏野文庫土蔵(えなぶんこ どぞう)です。
▲荏野文庫土蔵
「荏野」と書いて「えな」と読みます。「江名子」の地名の由来から、大秀がそう名付けました。
この土蔵は大秀の文庫蔵で、貴重な書物を火災と鼠害(=そがい・ネズミの害)から守るため、池の中に建てられています。
蔵の工事が始まったのは(=釿始・ちょうなはじめ)は天保15年(1844)。京都の神楽丘の土を運びこみ、飛騨国内各社の注連縄を集めて苆(すさ)に使い、当時、高山に住んでいた左官の名工・江戸屋萬蔵が塗り上げました。
蔵の上階の前面には明かり窓がつけられています。

平成10年(1998年)、蔵の大規模修復工事がなされ、高山の左官の名工・挟土秀平氏が修復を手がけました。江戸屋萬蔵の技術を受け継ぐ形で、丁寧に土蔵の内外壁が塗り直されており、かつての色彩と風合いがよみがえっています。

さて、この荏名神社ですが、今から数年前に再興200年を迎えています。
令和元年(2019年)11月に「再興二百年祭」が盛大に執り行われ、厳粛な神事の後、獅子舞が披露され、地元の人々も多く集まり大盛況だったそうです。
大秀翁もたいそうお喜びだったことでしょうね。
<荏名神社MAP>
道分燈籠(みちわけどうろう)
天領時代、江戸街道の辻に建てられたという風流な燈籠です。この燈籠に刻まれている言葉や狂歌について解説します。
荏名神社の参道を戻り、鳥居をくぐって県道462号線に出ると、道路の向こう側に石燈籠が見えました。「道分燈籠」です。
江戸街道と村道の分岐点に建てられました。
▲荏名神社側から見た様子。道分燈籠の左を通る道が「江戸街道」になります。
道路を渡って、近くまで行ってみましょう。
▲道分燈籠
この道分燈籠は、江戸時代の天保3年(1832年)、菊田秋宜(あきよし)が建立したもので、とても風流なものでした。
菊田秋宜とは、通称を泰蔵といい、第18代飛騨郡代・大井帯刀永昌の元締手代で、文雅に長じ、書や狂歌にも秀でた人物です。
この燈籠の棹(さお)石の四面には、以下のような文字と狂歌が刻まれています。
献燈 荏名神社大前
みのぶさん
左 江戸 道
ぜんこうじ
行列の見事乗鞍かさが岳
やりさへ高くふれるしら雪 秋宜
天保壬辰三月 菊田秋宜
▲燈籠の棹石部分。「左 江戸」とはっきり読めます。その下には「みのぶさん、ほんこうじ」と仮名で刻まれています。
ここに出てくる「みのぶさん」とは「身延山」のことを指し、山梨県にある日蓮宗総本山・久遠寺のことです。また「ぜんこうじ」とは、善光寺詣の「善光寺」(長野県)のことです。
秋宜は日蓮宗の信徒だったそうで、それで、この燈籠に「身延山」を付け加えたのではないかといわれています。
▲左の面には、秋宜の狂歌が刻まれています。
「行列の見事 乗鞍 かさがたけ(笠ヶ岳) やり(槍)さへ高くふれる しら(白)雪」
と詠んだこの狂歌は、北アルプス(飛騨山脈)の山名をもじって大名行列に仕立てた句で、粋な趣向になっています。
また、この燈籠から旧街道を挟んで向かい側にあるお墓は、秋宜の上司・大井帯刀郡代が建てた「寿墓」(=じゅぼ・生前に建てたお墓)だそうです。
昔は、生前にお墓を建てることは、健康長寿や子孫繁栄につながり縁起がいいと言われていました。
▲大井帯刀郡代の寿墓
▲右のお墓は、菊田秋宜の寿墓ではないかといわれています。
道分燈籠の横には、高山市の姉妹都市である松本市(長野県)から贈られた「道祖神」の碑がありました。
▲平成13年(2001年)に姉妹都市提携30周年を迎えたことを記念して、松本市から寄贈されました。
昔は人や荷物を積んだ牛馬が行き交ったというこの辻を、現在は車が激しく往来しています。周囲の風景も大きく変わりましたが、この道分燈籠は、江戸時代の頃と同じたたずまいで、道行く人々や車を静かに見守り続けています。
▲道分燈籠の地点から見る江戸街道の様子。
さて、「東山遊歩道」はこの辺りまでとなります。この地点で折り返して、再び東山寺町方面へと戻ります!
<道分燈籠MAP>
清伝寺(せいでんじ)
東山寺町からほど近い江名子町内に「清伝寺」というお寺があります。このお寺の意外な歴史についてご紹介します。
清伝寺は、東山寺町(宗猷寺町)から江名子町に入ってすぐの所にあります。
▲錦橋を渡り、あずま坂(江戸街道)より一本手前の四つ角で、右に曲がって県道462号線に入り、まっすぐ進みます。
錦橋から県道に入って少し歩くと、左手にお寺が見えてきました。「清伝寺」です。
▲神護山(じんごんでら)清伝寺。高野山真言宗のお寺です。
ここで「東山遊歩道」のパンフレットを開いてみましょう。清伝寺についての説明が、次のように記載されてあります。
▲東山遊歩道パンフレットと記載内容
「765年、加賀白山山麓に創建されたと伝わる。1920年に高山に移転し、その後1930年に現在地へ移った。」
一見、サラッと簡潔に書かれてありますが、私はこの部分に興味が惹かれました。
奈良時代に加賀国(石川県)の白山の山麓で創建されたというお寺が、どういう経緯で飛騨高山の江名子に移ってこられたのか?その詳細がさっぱりわからず、非常に謎めいています。
そこで、この謎を解明すべく、清伝寺を訪れ、ご住職からお話をうかがうことにしました。
▲清伝寺の桐谷可彬(かひん)ご住職。白山時代から数えると第二十一世、江名子に移られてからは三代目にあたるそうです。
清伝寺が、江名子のこの地(字石切場)に本堂を構えたのは昭和5年(1930年)。本堂の建物は、時代的に新しいものですが、もとは加賀白山の麓にあったというお堂で、不思議なご縁で北陸から飛騨高山へと移って来られました。
清伝寺の縁起によると、天平神護元年(765年)に、越前国(現在の福井県)の僧で白山を開山した泰澄(たいちょう)禅師が、加賀白山山麓に一寺を創建したのが始まりと伝えられています。
堂守は何代か続いたようですが、後鳥羽帝の時代に国乱が生じで中断。その後、永享5年(1433年)京都醍醐寺末の無量寿院内 賢誉僧正の高弟子・成伝律師が再興し、加賀藩前田家の祈願所となりました。
ちなみに「清伝寺」という寺名は、清寧天皇(即位480年)の「清」と、寺を再興した成伝律師の「伝」から、それぞれ一字ずついただいて付けらたそうです。
やがて寛永16年(1639年)、前田利次が分家して越中富山藩の初代藩主になると、寺も藩主に従って富山に移り、富山藩主の祈願所として栄えました。
▲清伝寺前の地蔵堂
ところが明治時代に入ると、廃仏毀釈の禍難に遭い、さらに富山の大火にも遭って本堂は全焼。寺の記録も全て失い、御本尊の十一面観自在菩薩像だけが残りました。
大正7年(1918年)、清伝寺第十九世の下切弘道和尚は、飛騨市宮川町西忍の出身で、富山での寺院の維持が困難となったことから、高山への移転を願い出て、大正9年(1920年)に高山市江名子町に移ることとなります。
しかし、本堂再建の道は非常に険しく、弘道和尚は、縁あって高山市国府町半田の民家の世話になり、ここを拠点に各地を回って托鉢(たくはつ)をし、大変な苦労を重ねながら浄財を集めました。
昭和5年(1930年)、ようやく現在の場所に本堂が建てられる運びとなり、最後の飛騨匠(ひだのたくみ)と称される大工、九代目・阪下甚吉によって建立されました。
▲本堂の外観
▲本堂の内陣
お大師像の背面には、歴代の堂守・住職が大切にお守り抜いた清伝寺の御本尊「十一面観自在菩薩像」が安置されています。泰澄禅師が彫ったものと言い伝えられています。
▲お大師様と十一面観自在菩薩像
加賀白山の麓といえば、白山信仰の大本(おおもと)ですが、そこから富山へと移り、またさらに高山へと移ってこられた十一面観自在菩薩さま。その間、様々な試練に遭いながらも、時代の荒波を乗り越え、こうして江名子の地に落ち着かれました。第十九世 弘道和尚の本堂復興までの過程は、まさに「同行二人」そのもの。壮大なヒストリーに圧倒されました。
心打たれました。貴重なお話をありがとうございました!
参拝の記念に「御朱印」と「本」はいかがですか
▲御朱印と案内本。玄関にて。
お寺の玄関内にて、清伝寺の御朱印を授与していただけます。また、案内本『飛騨三十三観音霊場めぐり』を販売しています。この本の編集には、桐谷ご住職が携われたそうです。
中を開くと、霊場めぐりの寺院の所在と歴史がわかりやすくまとめられており、巡礼の案内本としてだけでなく、歴史読本としても充分に読みごたえがある内容です。
▲『飛騨三十三観音霊場めぐり』(一冊1,000円)
清伝寺の他、飛騨三十三観音霊場の各寺院でもお求めできるそうです。
これを機に、飛騨の観音様をお参りする「霊場めぐりの旅」を計画するのもよさそうですね!
旅の思い出&記念に一冊いかがでしょうか。
神護山 清伝寺

納経受取所:玄関
拝観料:無料
※参拝をご希望の方は、8:30~17:00(昼食時を除く)にお越しください。
住所と詳細はこちら:
【番外編】江名子の江戸街道沿いに残る不思議スポット&史跡
ここからは【番外編】として、東山遊歩道のコースからは外れますが、東山寺町から徒歩で行けるスポットで「江戸街道」沿いにある史跡旧跡をご紹介します。
美濃佐紀の▲荏名神社前に設置されている江名子町の史跡案内図
ここまで「東山遊歩道」のエリア内にある寺社や史跡をご案内しましたが、せっかくの機会ですので、江戸街道をもう少し歩いてみましょう。

追分燈籠をスタート地点に、江戸街道を進みます!
◆不動明王
道分燈籠を出発して数分。左手の山の斜面に祠(ほこら)があるのを見つけました。
▲階段をのぼってみると…
▲お不動様が祀られていました。
▲不動明王像の横には「御嶽神社遥拝所」と刻された碑が立っています。
この不動明王さまは、大正8年(1919年)に、高根鉱山(現・高山市高根町)からこの場所に移されたものです。
明治時代、朝日町秋神の人たちが発起人となって、当時、高根町にあった高根鉱山の坑夫たちから寄付を募り、鋳物で有名な富山県高岡市にて作られました。
しかし、高根鉱山が休山となり、この先の見通しが立たなくなったため、「飛騨国内であれば何処に安置されてもいい」ということで、当時江名子町に住んでいた人がこの不動尊を委託されたそうです。その縁で、現在の地に安置されました。
※「不動明王」道分燈籠から約130m・徒歩2分
◆義民 江名子村 孫次郎の墓
不動明王像の祠から江戸街道に戻り、さらに奥へと進んでいきます。
▲この辺りまで来ると、視界が開け、山並みの景色を楽しめるようになります。
左手の斜面に、小さな祠と「義民・孫次郎の墓」と記された標柱があるのを見つけました。
▲ここが入口のようです。
案内通りに山道をのぼっていくと、山の頂にお墓と祠がありました。
▲義民江名子村孫次郎の墓
孫次郎とは、江戸時代に飛騨国で起きた百姓一揆「大原騒動」で、江名子村から農民代表の一人となった人物です。
▲孫次郎について記された説明書き
時は安永2年(1773年)、孫次郎を含む6人の百姓たちは、江戸で老中・松平武元の登城を待ち伏せ、直訴状をかかげて駕籠訴を決行。当時、直訴は重罪であり、孫次郎も江戸で処刑されます。江名子村の人々は孫次郎を義民と敬い、お墓を建てて手厚く弔いました。
ちなみに老中の松平武元とは、2025年の大河ドラマ「べらぼう」で石坂浩二さんが演じられていた人物です。
▲孫次郎の墓所からは、江戸街道や江名子の町を一望することができます。
「大原騒動」については、こちらの記事で解説しています。
「『高山陣屋』の歴史と見どころを徹底解説!江戸時代の飛騨高山を巡る旅/「大原騒動」について」シモハタエミコ(高山市民ライター記事)
孫次郎は生きて故郷に帰ることはできませんでしたが、今はこの高台の地で静かに眠っています。
※「義民江名子村孫次郎の墓」不動明王から約230m・徒歩3分
◆湯神様(ゆがみさま)
義民孫次郎の墓の下、江戸街道の道脇に、何やら標柱が立っているのを見つけました。
▲赤丸でしるしをつけた所に注目
近寄って見ると「湯神様」と書かれてありました。
▲「湯神様って何?」疑問に思い、説明書きがないか、あちこち探してみましたが、標柱の裏に「荏名古(えなこ)史跡保存会」と記してあるだけで、詳細はありませんでした。
妙に気になり、矢印が指し示す方へと坂道を下ってみると、田んぼの畦地に小さな祠がありました。
▲江戸街道を背に、田んぼの畔にポツンと建っている小さな祠。これが湯神様でした。
湯神様について後で調べてみたところ、荏名古史跡保存会が発行した『荏名の里』という冊子に、「湯神様」について次のような説明がありました。
「義民孫次郎の墓所前下、市道の下に土地改良前まで田圃の中に小さな地蔵堂があった。そこから出る水を疣(いぼ)につけると、不思議にこれが取れると云って、近隣からも、びんや徳利を持って来て、もらい水をした。これは近年まであった。-中田栄造記-」
湯神という名の由来についてはわかりませんでしたが、周囲の下草がきれいに刈られ、今も大切に護持されている様子から、地元の人々から愛され、篤く崇拝を集めてきたお地蔵様なのだろうなぁ…と感じました。
※「湯神様」義民江名子村孫次郎の墓のすぐ下
◆江戸街道をゆく
湯神様の祠から江戸街道に戻り、再び奥へと歩きました。
▲とても見晴らしがよく、散策にピッタリの道です。
▲江名子小学校の前を通過。この辺りは宅地化が進んでいました。
▲小学校を通り過ぎた先で、昔の街道筋の名残を感じさせる風景に出会いました。 左手の家は、司馬遼太郎が『街道をゆく・飛騨街道』で「うつくしい」と感嘆した、伝統的な飛騨の民家の造りをしています。
江戸時代、正確な日本地図を作ったことで有名な伊能忠敬も、測量のため飛騨入りした際には、帰路でこの江戸街道を通っています。
また、明治時代になると、飛騨各地の少女たちが糸引き工女となり、この街道を通って信州(長野県)の製糸工場へ出稼ぎに行きました。
時代を超えて、多くの人々が踏み歩いた江戸街道。
時々、目の前の遥か彼方に、冠雪した北アルプスの山並みがチラリと見える瞬間があり、そのたびに、昔の人々は、目の前の山を幾重も越えて進み、飛騨山脈の向こう側へと歩いて行ったのだなぁ…と感慨深く感じました。
この道を歩いていると、昔の旅人たちの気持ちに触れられるような気がします。
※「江戸街道」道分燈籠から畑殿屋敷址までの区画・約1.4㎞ 徒歩22分
◆畑殿屋敷址(はたどのやしきあと)
江戸街道をさらに進んでいくと、「畑殿屋敷址」にたどり着きました。

鎌倉時代から戦国時代まで、江名子を治めていた豪族・畑氏の屋敷跡で、畑家の歴史の中で特に栄えた畑六郎左衛門安高の時代に造営されました。
しかし、天正13年(1585年)、金森長近が飛騨攻めを行った際、畑六郎左衛門は三木の家臣であったため松倉城に立てこもり、敗死します。
その後、屋敷は消失し、現在は跡地だけが残っています。
▲道側から見た様子。なだらかな坂をのぼった先にあります。
▲畑六郎左衛門の屋敷跡であったことを示す碑
▲「加茂神社御旅所」の標柱。この場所は、ここから程近い場所に鎮座する加茂神社(畑氏が創建したと言い伝えられている)の御旅所になっていました。
▲春になると、ここは桜の名所となるそうです。
※「畑殿屋敷址」湯神様から約1㎞・徒歩15分
◆帰路の「白山」
さて、「江戸街道」散策はここまで!もと来た道を戻ることにしましょう。
行きは乗鞍岳が見えましたが、帰路はなんと!白山が見えるではありませんか。
▲江戸街道から見える白山
高山の街中で白山がここまでハッキリ見えることは珍しく、驚くと共に、心洗われる思いがしました。
昔の旅人たちも、この風景を見たのかもしれないなぁ…と思うと、胸が熱くなりますね。
◆さらに番外編・馬頭観音
かつて江名子町内の街道筋にあり、広く信仰されたという馬頭観音さまが、飛騨民俗村「飛騨の里」内に移転、安置されています。
▲飛騨の里に安置されている馬頭観音像。江名子小学校同保育園の拡張工事にともない、こちらに移されました。
▲江戸時代の明和2年(1765年)に建立されたものだそうです。
飛騨民俗村「飛騨の里」を訪れる機会がありましたら、ぜひ探してみてください!(飛騨の里⇒Googleマップ)
<ご紹介した江名子スポットはこちら>
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まとめ・地図
江名子町の歴史散策、いかがでしたか?
江名子町は、下江名子は住宅地、上江名子は農業というイメージが強く、観光的には見過ごされてきたように感じます。ですが、今回、記事執筆にあたり、町の歴史をいろいろ調べてみたところ、今まで知らなかった様々な伝承や史実がたくさん出てきて、正直驚きました。
また、今回初めて、あだち坂を通って畑殿屋敷址付近まで「江戸街道」を少し歩いてみたのですが、江名子町内には観光色に染まっていない手付かずの史跡旧跡が多く残されており、とても新鮮な気持ちで散策させていただきました。
飛騨高山ファンの皆さま、古い町並だけでなく、次はぜひ「江名子」にも足をのばしてみてください!きっと魅了されますよ。
最後になりますが、どの寺社・史跡も、地元の方々が長年にわたって大切に護持管理されてきた貴重なものです。ご参拝・ご見学の際は、マナーを守っていただきますよう、よろしくお願いします。
▲「荏名神社」境内、江名子川の前でハイチーズ!
<今回ご紹介した全スポットはこちら>
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参考文献
「斐太後風土記」富田禮彦
「飛騨国中案内」上村木曽右衛門
「飛州志」長谷川忠崇
「飛騨山川」岡村利平
「高山市史 街道編」上・下 高山市教育委員会
「飛騨の神社」飛騨神職会
「飛騨三十三観音霊場めぐり」飛騨三十三観音霊場会
「荏名の里」荏名古史跡保存会
「錦山町内会の歩み」錦山町内会
「春日町の今昔」高山市春日町
「飛騨の街道」飛騨運輸株式会社
ライタープロフィール
- シモハタエミコ
- 生まれも育ちも飛騨高山。生粋の飛騨弁ネイティブです。お車だけでなく公共交通機関で高山に来てくださった方も楽しめる観光情報を中心にお伝えします。また、ニッチなお散歩コースもご紹介します。










