飛騨高山【文学散歩道】を深掘り!文学碑を巡りながら『飛騨の近現代文学』作家と作品をご紹介 with飛騨関連資料botさん
JR高山駅から南東へ約1.5km、飛驒の里がある松倉エリアに「文学散歩道」があります。この小道には、飛騨に縁ある文人の作品の一節を刻んだ碑がたたずみ、文学ファンにとって隠れた名所となっています。
本記事では、X人気アカウント「飛騨関連資料bot」の中の人・飛騨ボットAさんと共に、この道にある文学碑を順番にたどりながら、各文学碑の作家と作品、そして飛騨地方の近代から現代までの文学(近現代文学)の歴史を紐解きます。石碑の言葉に耳を澄ませながら、深い文学の旅へ出かけてみませんか。
「文学散歩道」について ~歴史・場所・アクセス~
「文学散歩道」がつくられた背景と文学碑について解説します。また、文学散歩道の場所とアクセスをご案内します。
▲秋の文学散歩道。自然豊かなこの小径に、飛騨に縁がある文人の文学碑が点在しています。(2025年11月撮影)
「文学散歩道」は、飛驒の里通り(車道)に平行する形で、松倉山の山すそにつくられた約400mほどの遊歩道で、昭和49年に新設されました。開通当時は、文学碑は1~2基でしたが、その後、少しずつ増えていき、現在はこの小径に全部で9基の文学碑が設置されています。(そのうちの2基は、散歩道の途中にある「山岳資料館」の敷地内にあります)
▲「文学散歩道」のマップ(「飛驒民俗村・飛驒の里」公式サイトより)
①文学散歩道ができた背景と、これまでの歩み
現在、高山市街地の西南・松倉山の登山口近くには、野外博物館「飛驒の里」がありますが、今から60年以上昔の昭和30年代は、まだ飛驒の里はなく、現在「友好の丘」と無料駐車場になっている辺りに「飛驒民俗館」がありました。飛驒民俗館は、飛驒の里の前身にあたる施設で、ここに飛騨地方の貴重な古民家や民具が移築・保存されていました。
▲「友好の丘」駐車場。以前はここに飛驒民俗館があり、合掌造りの旧若山家住宅(平成時代に飛驒の里へ移築)がありました。右の道路が「飛驒の里通り」です。
しかし、昭和40年代に入ると、人々のライフスタイルが変化し、それと共に、飛騨地方の集落文化が、さらなる消失の危機にさらされます。
そこで、文化財保存を目的とした「野外集落博物館」構想が生まれ、市民からの声も高まり、高山市は、飛驒民俗館よりさらに坂をのぼった場所に「飛驒の里」をつくることを決定。それに合わせて、「飛驒民俗館」と「飛驒の里」を結ぶ車道(現・飛驒の里通り)もつくられました。
こうして、昭和47年(1972年)、野外博物館「飛驒の里」が完成、オープンします。
▲「飛驒の里」入口の様子。(2026年5月撮影)
※「飛驒の里」誕生の詳細は、こちらをご参照ください!
◆『【飛驒民俗村 飛驒の里】集落文化を未来へ・歴史学芸アドバイザーと紐解く、飛騨地方の農山村の民家と暮らし』シモハタエミコ(市民ライター記事)
ちょうどその頃、飛驒の里が開館してまだ間もない昭和49年(1974年)、社団法人 高山市文化協会では、高山市名誉市民の瀧井孝作氏の文学碑建設について話し合われていました。また、それにともない、飛驒の里と飛驒民俗館を結ぶ「遊歩道」の計画も浮上していました。
この時、当時の文化協会長から出された提案は、次のようなものでした。
「合掌家屋の若山家を中心とした観光施設としての『飛驒民俗館』と、新しくできた『飛驒の里』の施設を結ぶ自動車道路の他に、遊歩道がほしい。そこには自然があり、風土が理解できるものが必要ではないか。飛騨出身、あるいは飛騨を愛している作家の文学作品を碑にして理解を深めるとともに、この道の意義と価値を高め、観光客にも市民にも、飛騨の文学を理解し、親しんでもらいたい」(「高山市文化協会創立50周年誌」より)
こうして、工事は急ピッチで進み、昭和49年(1974年)11月、「文学散歩道」が誕生しました。
▲瀧井孝作の文学碑「無限抱擁」。文学散歩道に設置された第一号の文学碑です。
散歩道が完成した翌年の昭和50年(1975年)、滝井氏の誕生日(4月4日)にあわせて、第一号の文学碑が設置されます。同年、瀧井氏が高山に来た時に(当時、瀧井氏は東京都八王子市に居住)、除幕式が行われました。
その後も、高山市文化協会が主体となって、地元の企業や各種団体と連携し、文学碑の建設をすすめていきました。このような経緯から、高山市文化協会では、今も毎年8月に、協会役員による碑の掃苔作業を行っており、文学散歩道の維持管理に努めておられます。
現在、かつて飛驒民俗館があった辺りには、「旧野首家住宅」と「山岳資料館」が残っており、これらの建物と飛驒の里を合わせて、「飛驒民俗村」と呼ばれています。
そんな飛驒民俗村の中にある遊歩道・文学散歩道は、令和6年(2024年)に、高山市によって整備工事が行われ、さらに歩きやすい道へと生まれ変わりました。
▲整備された文学散歩道。きれいに舗装され、散策しやすい道に整備されました。
②文学散歩道にある「文学碑」について
文学散歩道およびその周辺には、次の表にある文学碑が置かれています。
▲「場所」の欄に「※」がついている碑は、文学散歩道に設置されているものです。10の小峯大羽の碑は、散歩道の近くにある「飛騨東照宮」境内にあります。
散歩道が計画された当初は、文学碑建設の第一候補として、瀧井孝作(高山出身の小説家・俳人)、福田夕咲(高山出身の詩人・歌人)・田中大秀(江戸時代の高山の国学者)・江馬修(高山出身の小説家)・牧野英一(高山出身の法学者)、前田普羅(飛騨に縁のある俳人)の名が挙がっていました。
また、この他に、飛騨に縁がある著名な文化人(若山牧水・北原白秋・河東碧梧桐・井上靖・野口雨情など)や、加藤歩簫(高山の江戸時代の俳人・文化人)なども挙げられていました。
このような中で、文化協会が定めた選定の条件は、以下の3点です。
①飛騨を扱った作品であること
②名が知られた人であること
③文学作品であれば、作者名は関係ない(飛騨出身にはこだわらないという意味)
これらを基準に選定がすすみ、昭和50年代から平成時代にかけて、地元の企業や各種団体の協力を得ながら、順番に文学碑が建設されていきました。また、市内にあった古い碑の移設も行われています。
※文学碑の碑文と作家については、後ほど登場する「文学散歩道を散策する」コーナーで、詳しくご紹介します!
③文学碑こぼれ話
ここで、実際に文学碑に関わったご経験がある、高山市文化協会の前会長・小林浩さんから、お話をうかがうことができました。
小林さんは会長時代に、上の表の9・福田夕咲(ふくだ ゆうさく)の文学碑の移設に携わったそうです。
▲こちらがその歌碑です。昭和29年(1954年)につくられた古い碑です。
「私が文化協会にいた頃、土野市長(この当時の高山市市長)から頼まれて、昔、高山市上野町にあったという福田夕咲の歌碑を探し出して、散歩道に移設したんですよ」
かつて上野町には「鹿の湯」という銭湯旅館があり、その旅館の前庭の通路に、福田夕咲の歌碑(昭和29年建立)があったそうです。しかし、鹿の湯が廃業して建物が取り壊された時に、歌碑が行方不明になり、所在がわからなくなりました。
そこで、小林さんは、土野市長から話を受けて、この歌碑についていろいろ調べて探し回ったところ、かつて鹿の湯に出入りしていた人が、碑を自宅の裏に運んで大切に保管されていたことがわかったそうです。こうして、保管していた人と話し合い、無事、句碑を受け取ることができました。
その後、この歌碑の設置場所について、上野町の町内会長とも相談し、検討した結果、上野の丘陵をのぞむことができる場所「文学散歩道」に置いたらどうか…という案が浮上します。そこで、市内の短歌会・萌木会の協力を得て、現在の場所に移設しました。
ちょうど、その3年ほど前に、飛騨山岳会が、会の創立100周年を記念して、福田夕咲の歌碑(表の8)を山岳資料館の庭に建設したばかりでした。そこで、その歌碑の横に、見つけた歌碑を並べて置いたそうです。
「あちこち探し回って、やっと見つけ出し、苦労して移設した碑なので、思い入れがありますね」と小林さん。
▲左が、かつて上野町にあったという福田夕咲の歌碑です。右は、飛騨山岳会によって建設された福田夕咲の歌碑。
また、この他に、今も行方がわからず、心残りになっている碑があるそうです。
「以前、高山駅前の十六銀行の前に、若山牧水(わかやま ぼくすい)と福田夕咲の短歌が刻まれた石灯籠(とうろう)があったんですよ。ところが、平成時代に行われた駅前通りの整備事業で、その灯籠がどこかに行ってしまい、今もわかりません」
大正10年(1921年)10月、長野県白骨温泉で湯治をしていた若山牧水は、飛騨山脈(北アルプス)を越えて飛騨入りし、平湯峠を越えて高山を訪れます。この時、大学時代の友人・福田夕咲との再会し、二人は酒を酌み交わしました。
牧水の手記『飛騨高山町・古川町』によると、「彼(夕咲)と私とは、早稲田の学校で同級であった。そして同じ詩歌友達で、飲友達であったのだ」と記されてあり、二人は、とても親しい間柄だったことがわかります。
一方、福田夕咲は、高山市大新町で生まれ育ちました。明治37年(1904年)18歳の時に上京して早稲田大学英文学科に進学し、ここで牧水と出会います。大学卒業後、夕咲は、東京で読売新聞社に入社し、編集の仕事に就きながら、詩人としても活躍します。しかし、大正3年(1914年)、家業を継ぐため高山に帰郷しました。
その後、月日は流れて大正10年の秋、牧水は長野県での湯治を終えたところで、足をのばして高山を訪れ、夕咲との再会を果たしました。夕咲も、学友の突然の来訪を喜んだそうです。
この時、二人が酒席で詠み交わした歌は、次の通りです。
夕咲「客人(まろうど)よ 飛騨は山国 風寒し 何はなくとも 酒きこしめせ」
牧水「夕咲は 悲しからずや 朝に夕に 薬のごとく 酒を飲むかも」
この贈答歌には、当時の二人の心情がよく表れていて、じんわり伝わるものがあります。この2首が石灯籠に刻まれ、昭和57年(1982年)、高山駅・東口側の十六銀行前に設置されたそうです。
「この二人の句が、またいい文面なんですよ」と、しみじみ語る小林さん。
駅前の整備事業の関係書類を読み返したり、資材の仮置き場だった場所を調べたり等、あちこち探し回られたそうですが、結局、わからなかったそうです。
「もしも見つかれば、若山牧水と福田夕咲の歌碑の一つとして、文学散歩道に置けたんですけどね」
▲参考までに、こちらは飛騨市古川町にある若山牧水の歌碑です。高山を出発し、次に古川町を訪れた牧水は、飛騨古川でも夕咲と酒を飲んだそうです。(2025年5月撮影・円光寺裏の瀬戸川のほとりにて)
最後に、これから新しい文学碑がつくられる可能性についてお聞きしたところ、文学碑の建設や移設には多大な費用がかかり、また、新設に向けて様々な手続きや段取りが大変なため、強い熱意がないと、なかなか簡単には進められないものなんだそうです。ですが、今後、文学碑を新たに設置するとなると、(昔は、地元の企業や各種団体などから寄付金を募りましたが)、今の時代は、有志によるクラウドファンディングという形で行われるかもしれませんね…とのことでした。
なるほど。貴重なお話、ありがとうございます!
国文学ファンとしては、牧水と夕咲の句が刻まれた灯籠の発見を強く望むところです。
また、そろそろ新しい文学碑があってもいいんじゃないかなぁ…とも感じました。
例えば、『氷菓』の文学碑とか…⁉ これはわたしの個人的希望ですが、あれこれ想像すると夢がふくらみますね!
④場所とアクセス
文学散歩道へのアクセスをご紹介します。
JR高山駅から南西へ約1.5㎞、友好の丘を目指して進みます。文学散歩道への入り口は、友好の丘のすぐ横にあります。
▲「高山駅」から「友好の丘」までのマップ。
・徒歩の場合…高山駅から約20分~25分。車の往来が激しい道路を歩きます。安全にはお気をつけてください。
・自家用車…高山駅から「友好の丘」駐車場まで約7分。駐車場から散歩道入り口までは徒歩1分。
・さるぼぼバス(飛騨高山周遊バス)…「高山濃飛バスセンター」から、バス停「友好の丘」まで約10分。バス停から散歩道入り口まで徒歩1分。※「飛騨高山周遊バス」路線と時刻表(濃飛バス公式サイトより)
▲「友好の丘」から南側へ道路を渡ったすぐの所に「文学散歩道」の案内標識があります。レストラン風土さんと飛騨甚五郎彫刻さんの間にあるこの道が「文学散歩道」への入り口です。
文学散歩の同行者「飛騨関連資料bot」さんをご紹介します
散歩に出かける前に、わたしと一緒に、文学碑巡りをしてくださる心強い助っ人・飛騨関連資料botさんをご紹介します!
飛騨ボットAさん(中の人)は、今までにも、わたしの市民ライター記事に登場しているので、もうご存じの方も多いと思いますが、改めてご紹介させていただきます。
「飛騨関連資料bot」とは、X(旧Twitter)で、飛騨の歴史・民俗・文学・文化・生活…等に関するニッチな情報を発信しているアカウントです。
▲X(旧Twitter)のアカウント
<飛騨関連資料bot・自己紹介>
わたしたちは、岐阜県飛騨地方にまつわる文献や、暮らしの中のモノ・コトをご紹介しているアカウントです。メンバーは飛騨地域の出身者で、大学で人文社会科学を学んだ者たちで運営しています。
活動のきっかけは、大学時代に卒業論文を執筆するなかで、飛騨地方に関する様々な文献に触れたことでした。文献を読み進めるうちに、今まで知らなかった郷土に関する情報や興味深い記述に数多く出会い、「もっと多くの人に、飛騨の魅力や飛騨に対する多様な視点を知ってもらいたい」と思うようになり、発信する活動を始めました。現在は主にX(旧Twitter)で情報を発信しています。
当初は、文献の抜粋紹介が中心でしたが、今は写真を交えながら、飛騨の多様な歴史・文化・民俗・暮らしなどをお伝えしています。
▲飛騨関連資料botさんの「江馬修」に関するポスト(参考)
そんな飛騨の歴史民俗に詳しい飛騨関連資料botさんとコラボし、高山市内各地のディープな歴史や史跡をご紹介する記事を3作書かせていただきました。
◆江戸時代の高山を歩こう!天領時代の飛騨高山を深掘りする歴史散歩 with 飛騨関連資料botさん
◆【国道361号線・江戸街道をゆく】朝日町・高根町の旧街道を深掘りする歴史探訪 with 飛騨関連資料botさん
◆もう一つの白川郷【荘川】を深掘り!歴史・グルメ・史跡を巡る「下道ドライブ」体験レポ with飛騨関連資料botさん
また今回も、飛騨関連資料botの中の人・飛騨ボットAさんと共に、文学散歩道を散策しながら、飛騨に縁のある作家とその文学について深掘りします。どんなエピソードが飛び出すか、お楽しみに!
▲文学散歩道にて。右が飛騨ボットAさん、右が筆者です。
【文学散歩・導入編】いざ!文学散歩道へ
それでは実際に文学散歩道を歩いてみましょう!まずは、友好の丘駐車場から散歩道までの様子をご案内します。
ここからは、いよいよ現地体験レポです!
まず最初に、飛騨ボットAさんと向かったのは、友好の丘駐車場です。ここに車を停めて、文学散歩道へと徒歩で進みます。
▲友好の丘駐車場。この駐車場の上に「友好の丘」公園があります。文学散歩道は、この駐車場の奥に見える山(松倉山)の山すそにあります。
駐車場を通って向こう側の道路に出て、「友好の丘」方面に向かって数歩進みます。すると、左手に細い横道があり、その道の入り口に「文学散歩道」と記された案内板があります。
▲これが「文学散歩道」の入口を示す案内板です。案内板は、飛騨甚五郎彫さんの塀にあります。小道を挟んで右側にはレストラン風土さんがあります。
この案内板が目印です。この小道に入って、まっすぐ進みます。
少し進むと、すぐ右手に、飛驒民俗村の「旧野首家住宅」と「文学散歩道」の案内図が見えてきました。
▲右に見えるのが旧野首家住宅です。また、野首家の前には、文学散歩道の案内図が設置されていますので、これで道順を確認できます。
こちらが旧野首家住宅です。飛驒民俗村の建物で、昭和37年(1962年)、日本各地の芸術家や文化人からの寄付金によって、高山市片野町から飛驒民俗館の敷地に移築されました。
▲旧野首家住宅(飛驒民俗村)
旧野首家住宅は、クレ板葺(ぶ)きの石置き屋根で、飛騨の伝統的な民家の形をしています。建築年については、今から約300年前の元禄8年(1695年)の検地帳や当時の絵図には、もうすでに記載されていたことから、それより以前に建てられたと考えられています。飛驒民俗村にある古民家の中では、最も歴史が古いものなんだそうです。
※旧野首家の詳細については、こちらをご参照ください!
さて、この旧野首家を目印に、文学散歩道が本格的にスタートします!
▲旧野首家を右手に見ながら、道なりにまっすぐ進みましょう。この山すそを通る小径に、文学碑が点在しています。それでは、いざ出発!
散歩に行く前に…
【散策時の注意事項】お気をつけてください!
①近年、松倉山とその周辺エリアでも、クマの目撃が相次いでいます。散策の時は、鈴を鳴らすなど、クマ対策を心がけてください。
②散歩道沿いの田畑には、獣害対策の電気柵が取り付けられている箇所があります。うっかり触れないようご注意ください。
【文学散策①】飛騨市古川町生まれの児童文学作家「早船ちよ」と、高山市出身の文化人「福田夕咲」
旧野首家住宅の横を歩き始めたところで、すぐに石碑を一つ見つけました。「早船ちよ」の文学碑です。
こちらが、早船ちよの文学碑です。右下には旧野首家住宅の屋根が見えます。
歩き始めてすぐの所にあるので、うっかり見落とさないよう気をつけてくださいね。

【碑文】峠に立つと 見えなかった風景が ひらけてくる。川ぞいの村、森、遠い町… そこへいく、ひとすじの道。峠に立つと 見えなかった山やまが あらわれる。そのさきにも峠、またそのさきにも。 そして、未知の世界が 呼びかける。峠をこえておいでーと。小説「峠」の序詞
【早船ちよ(はやふね ちよ)】
大正3年(1914)7月25日生、平成17年(2005)10月8日没
作家。児童文学者。古川町三之町に生まれ、高山市有楽町で育った。旧姓は住田。高山女子尋常高等小学校高等科卒。昭和1年(1926年/大正15年)『飛騨毎日新聞』が募った「十年後の飛騨」論文で審査外特別作品となり、将来への片鱗を見せた。昭和8年(1933年)上京。評論家の井野川潔と結婚し童話を書き始めた。昭和36年(1961年)代表作『キューポラのある街』を執筆し、日本児童文学者協会賞など受賞。『ポンのヒッチハイク』でサンケイ児童出版文化賞。平成9年(1997)古川町に「早船ちよ文学館」開館。『ちさー女の歴史』『早船ちよ幼年童話』十巻など著書七十冊以上。【飛騨人物事典より】
この碑には、長編小説『峠』の冒頭の記述で、主人公が峠を越えて飛騨を出ていくときの思いが刻まれています。
飛騨ボットAさんの解説によると、『峠』は6部にわたる長編小説で、主人公の少女・ちさが、父母の生い立ち「ちちははの記」を書き、これが学校の先生の目に留まって、続きを書くようすすめられるところから始まります。ちさが書いた父母の物語という形で小説は進み、やがて、ちさが生まれ、ちさ自身の話へとなっていきます。
「主人公のちさが、早船ちよと似た生い立ちで物語が進んでいくため、これは、彼女の実体験にもとづいた半自伝的な小説ではないかと感じています。明治から昭和初期の飛騨の人々の暮らしを、生活が良い時も悪い時も、全て活き活きと描き出されてあり、また、関東大震災・世界恐慌・戦争といった歴史的な出来事も、教科書的な説明ではなく、生活への影響として描かれています。」
なるほど。この物語は、飛騨出身の女性の一生涯という側面だけでなく、大正から昭和にかけての日本国内の状況も、主人公ちさの視点で描写されている…というわけですね。
「あと、登場人物の会話が飛騨弁なんですよ。ここは、非常に口語的に書かれているので、情景がありありと目に浮かびますよ」と飛騨ボットAさん。
早船ちよといえば、『キューポラのある街』が有名ですよね。吉永小百合さん主演で映画化されました。昭和37年(1962年)公開。
この原作者と知れば、「あっ!」と驚かれる方が多いかもしれませんね。
ちなみに、この文学碑は、早船ちよが卒業した高山町立女子尋常高等小学校の同窓会・藤紫の会と、株式会社飛騨庭石さんからの寄付、さらに、市民の皆さんへの呼び掛けで集まった寄付金によって、平成元年(1989年)12月に建設されました。
▲文学碑の前で、『峠』早船ちよ。
◆
ちょっとここで余談ですが、作家・早船ちよについて、もう少し触れてみたい方は、高山市の北隣・飛騨市古川町にある「飛騨市図書館」がおすすめです!館内に『早船ちよ』コーナーが設置されています。
▲早船氏の生誕地・古川町にある飛騨市図書館に設けられた「早船ちよ」コーナー。早船氏の著書のほかに、以前古川町にあった「早船ちよ記念館」から譲り受けた本などが集められています。(※許可を得て撮影)
▲『キューポラのある街』早船ちよ。飛騨市図書館の司書さんのおすすめ本です。旅の合間に「ご当地の図書館で読書」も素敵ですね!
◆
さて、再び文学碑に戻ってきました。こちらは『峠』を持つ飛騨ボットAさんです。
▲早船ちよの文学碑の前にて
この文学碑に刻まれているのは、早船氏の自筆の字です。碑によっては、作家が手書きした字が刻まれているものもあります。このように作家の筆跡を見学できることも、文学碑巡りの楽しみの一つです。
それでは、次の文学碑を目指していきましょう。早船ちよの文学碑のすぐ近くに「山岳資料館」があります。
▲山岳資料館への入口。この石段をのぼります。
こちらが山岳資料館です。明治36年(1903)に「高山測候所」として、高山市桐生町に建てられました。飛驒民俗村で唯一の洋風建築です。
▲山岳資料館の玄関。この建物は、国登録文化財に指定されています。
山岳資料館の建物の真横、入り口の石段をのぼってすぐ左手に、二つの碑が並んでいるのが見えました。「福田夕咲」の文学碑です。
▲右は「飛騨山岳会百周年記念碑」、左は「福田夕咲歌碑」。どちらも福田夕咲の歌が刻まれています。
【福田夕咲(ふくだ ゆうさく)】
明治19年(1886)3月12日生~昭和23年(1948)4月26日没
詩人・歌人。高山市大新町一の人。吉郎兵衛(敦雄)の四男。本名は有作。斐太中学、早稲田大学文学部卒。学生時代から人見東明、相馬御風らと交わって「自由詩社」を創設。明治42年(1909)読売新聞社に入社して北原白秋、若山牧水らと詩壇の新運動に参加。家庭の事情で大正3年(1914)帰郷。瀧井孝作らとの『ツチグモ』の創刊、(大3(1914))『飛騨新聞』創刊(昭和22(1947))を始め、山百合詩社、飛騨山刀倶楽部、飛騨短歌会などを育てて飛騨の文化に大きな足跡を残した。その才能から、飛騨という田舎にこもるのを惜しむ声もあった。昭和17年(1942)高山食品卸市場が設立され常務取締役。詩集『春の夢』、歌集『山花一束』『山づと』。【飛騨人物事典より】
右側の碑から順番に見ていきましょう。

【碑文】腰の山刀 伊達には差さぬ 山郷育ちの ララ荒男 夕咲
この文学碑には、大正9年(1920年)に夕咲が作詩した『アルプス節』の一節が刻まれています。
福田夕咲は、明治~昭和の飛騨高山出身の詩人で、一度、東京に出て、中央の文壇で活躍しますが、故郷に帰り、飛騨で文芸活動を積極的に行いました。
「飛騨の人々にとって今も馴染み深いのは、高山の風習について書いた『山都年中行事』や、今も斐太高校で演奏されている『斐高行進曲』(作詞時のタイトルは斐中行進曲)でしょうね」
夕咲は、旧制斐太中(現・県立斐太高校)の卒業生でしたね。今も、斐高の卒業式で流れるあの曲の歌詞は、夕咲の作です。
そんな彼の飛騨時代の作品の数々は、『福田夕咲全集』に収められています。
「実家の家業を継ぐため、飛騨に帰らざるを得なかった夕咲ですが、そのおかげで、飛騨の文芸が発展した面は大きいと思います」と飛騨ボットAさん。
飛騨にもたらした彼の功績は、文芸だけにとどまらず、飛騨山岳会の再興にも寄与しました。
飛騨山岳会は、日本で2番目にできた登山会として、明治41年(1908年)に創設されました。設立当初は、活発に登山を行っていましたが、時代の流れと共に活動が衰退していきます。
一方、夕咲は、山が好きで登山家の一面もありました。高山に帰郷後、飛騨山岳会の衰えた現状を憂いて、大正8年(1919年)「飛騨山刀倶楽部」を設立します。この会では、近代登山を取り入れるとともに、飛騨山脈の素晴らしさを広く伝え、飛騨の若き文人たちと登山活動を楽しみ、飛騨の登山文化に大きく貢献しました。
その後、山刀倶楽部は、結成から3年で、飛騨山岳会の再設のめどが立ったことから解散。以後、再び、飛騨山岳会が立ちあげられ、今日まで脈々と受け継がれています。
碑文になっているアルプス節は、もとは山刀倶楽部の会歌でした。その後、飛騨山岳会の会歌として引き継がれ、令和時代になった今も、飛騨山岳会員の"心のよりどころ"として愛唱されているそうです。
「大正から昭和にかけての飛騨の文献を調べていくと、どの資料でも、必ず福田夕咲の名前が登場します。改めて、彼はマルチな才能の持ち主だったんだなぁと感じます」
ちなみに、この碑は、飛騨山岳会創立100周年を記念して、平成20年(2008)8月に建設されました。
次に、左側のこちらの文学碑を見ていきましょう。

【碑文】いわのなる 沼の水乃面に 白くもの うつろうみれば そぞろさびしき 夕咲
これは、本記事・最初の段落で、前文化協会長・小林さんのお話「文学碑こぼれ話」で登場した、あの文学碑です。行方がわからなくなっていましたが、無事発見され、この場所に移設されました。もともとは、高山の上野平(うわのだいら・高山市上野町)の銭湯旅館「鹿の湯」にあったものです。
この句について、『福田夕咲全集』で調べてみたところ、夕咲が高山で設立した文芸サークル「山百合詩社」時代に、作られたものでした。もとの表記は「伊波野なる 沼の水の面に 白くもの 宇津良布みれば そゞろさびしき」とあります。
また、夕咲は、この温泉旅館をよく訪れていたようで、「上野の湯」と題した短歌も数首残っています。
夕咲が創設した「山百合詩社」に参加した者の多くが、山刀倶楽部の登山活動にも加わりました。彼らは、夕咲からたくさんのものを吸収し、青春時代を謳歌しました。
こうして振り返ると、福田夕咲は、山国・飛騨高山に、最先端の登山思想や中央文壇の気風を吹き込んだ、とても偉大な方だったんですね。
▲文学碑の前にて。『福田夕咲全集』を持っているのは飛騨ボットAさん。
ちなみに、飛騨の近代登山の歴史は「山岳資料館」で知ることができます。文学碑と合わせて、ぜひご見学ください!
また、福田夕咲や瀧井孝作など高山出身の作家については、「高山市図書館・煥章館(かんしょうかん)」2階の『近代文学館』で、詳しく知ることができます。高山散策の折にのぞいてみてください!
【文学散策②】高山市出身の小説家「江馬修」と、飛騨市神岡町出身の小説家「江夏美好」
山岳資料館を出て、道なりに歩きます。途中、散歩道のわきに、獣除けの電気柵が張られてあるのを見つけました。
▲道沿いの田畑を所有されている方が設置したと思われます。危険なので触らないよう気をつけてください。
実は近年、この松倉エリアでもクマが目撃されています。その他、さまざまな野生動物(ニホンカモシカ・イノシシなど)も出没していますので、散歩道を通る時は注意してください!
ちなみに、私はクマ鈴を装着、飛騨ボットAさんはスマホでラジオを鳴らしながら歩きました。
さて、そうこうしているうちに、次の碑が見えてきました。「江馬修」の文学碑です。

【碑文】歴史の本舞台から すっかりおき去りにされ、日本でもまれな奥ふかい山国のまん中にすてられた孤兒のように三百年も知られない、ひそかな存在をつづけてきた城下町の高山は、折から暗い、あつひもやと雪に蔽われて、音もなく、深い眠りの中にあった。(山の民より)
【江馬修(えま なかし)】
明治22年(1889年)12月12日生~昭和50年(1975年)1月23日没
小説家。高山町空町生まれ。地役人・江馬弥平の四男。斐太中学を中退し上京。神田区役所に勤める傍ら田山花袋の門に入り、自然主義文学に取り組んだ。明治44年(1911年)に処女作の短篇『酒』で文壇デビュー。大正5年(1916年)、ヒューマニズムを基調とした長編『受難者』がベストセラー。関東大震災を体験して社会主義に関心を持ち、マルクス主義に入っていき、大正15年(1926年)に、日本プロレタリア作家同盟参加、中央委員を務め、全日本無産者芸術連盟機関誌『戦旗』編集委員となった。後に、思想弾圧が強まったため飛騨へ帰り、雑誌『ひだびと』の編集に携わる傍ら、代表作となる長編『山の民』を執筆。昭和16年(1941年)には角竹喜登らと飛騨文化連盟を結成。戦後は再び上京し「人民文学」の創刊に参加。「アカハタ」に『本郷村善九郎』などを発表。【飛騨人物事典より】
碑文に刻まれている作品『山の民』は、明治2年(1869年)に飛騨地方で起きた「梅村騒動」を題材にした小説です。
梅村とは、明治新政府が、高山県(飛騨地方の最初の県)の知事として飛騨に送りこんだ人物・梅村速水のことです。元水戸浪士の彼は、若さゆえ、近代国家の理想に燃えて飛騨を革新的に治めようとしますが、飛騨人の民心を置き去りにした早急すぎる政治に反発をくらい、大騒動が勃発。梅村は飛騨から追い出されていまいます。
「この『山の民』は、梅村騒動前後の飛騨の物語です。明治の新政府より飛騨へ派遣された者、飛騨から離れる幕府の郡代、飛騨の農民、町人、地役人など、様々な人物が登場し、明治維新期の混乱する飛騨が描かれています。内容は3部に分かれていて、1部では、飛騨郡代が飛騨を離れ、新たに飛騨鎮撫使として竹沢寛三郎が入国するまで。2部では、竹沢に替わり、梅村速水が新たに県知事として任命されて、梅村による高山の統治が始まるまで。そして3部では、打ち壊しなど騒動の様子が描かれます。梅村騒動のシーンの迫力は圧巻です」と、飛騨ボットAさん。
飛騨で起きた騒動といえば、江戸時代の百姓一揆「大原騒動」と、この明治初期の「梅村騒動」が有名ですよね。飛騨人は、昔から筋の通らない卑劣なことは許せない気質なので、どちらの騒動でも我慢ができず立ち上がり、大原騒動の時には約18年間にわたって抵抗し続けました。どちらも最後は民衆側の勝利に終わっています。
そんな飛騨の近代史の一つ「梅村騒動」について克明に記したのが『山の民』です。
▲文学碑の前で、『山の民』上巻・江馬修
「江馬修は、この『山の民』を執筆する前に、『羊の怒る時』という記録文学を書いています。これは、関東大震災について修自身が体験したことを元に書かれていて、人は極限状態になると冷静な判断ができなくなるという、当時の現場の凄惨な状況を生々しく描いています」
『羊が怒る時』の執筆によって、江馬修の作品は大きな転換期を迎えます。
「『山の民』の迫力ある描写は、関東大震災を体験し『羊の怒る時』を書いたのが影響していると思います。これらの作品を読んでみて、彼がプロレタリア作家であることを改めて認識しました」
この『山の民』については、作家の大岡昇平も、「歴史の〈自然〉を破壊せずに、その中の劇的な契機を取り出すという方向において、最高の成果を収めている」と評しています。
江馬氏は、小説家として活躍する一方、郷土研究者としての一面も持っていました。高山に帰郷したのち、彼は、雑誌『ひだびと』を主催し、自身も赤木清のペンネームで考古学・民俗学の論文を発表しています。ちなみに、小説『山の民』は、雑誌『ひだびと』で連載していました。
なお、雑誌『ひだびと』には、福田夕咲も『山都年中行事』を寄稿しているほか、柳田國男や大学教授、全国の郷土研究者も寄稿しています。
そんな郷土における彼の功績をたたえて、昭和50年(1975年)、第一号の瀧井孝作の碑に次ぐ第二番目の碑として、江馬氏の文学碑が建設されました。
▲文学碑の前にて。『山の民』上巻を持つ飛騨ボットAさん
さて、次の碑を目指して、わたしたちは江馬修の碑をあとにしました。少し進むと、周囲が畑に囲まれた見晴らしのいい場所に出てきました。
▲文学散歩道の中ほどに来ました。
ここで、道を挟んで左右に文学碑が1基ずつあるのを見つけました。まずは右側の碑から見ていきましょう。
こちらは「江夏美好」の文学碑です。

【碑文】飛騨は「下々の国」である。大化の改新(西暦六四六年のおり)国制を「大・上・中・下」の四等に定められたが、飛騨は山また山の辺鄙ゆえ、下国のなかでも「下々の国」と呼ばれたという。「下々の女」より 江夏美好
【江夏美好(えなつみよし)】
大正12年(1923年)1月19日生~昭和57年(1982年)7月17日没
小説家。阿曽布村(現・岐阜県飛騨市神岡町)出身、名古屋などに居住。本名は中野美与志。高山高等女学校中退。昭和18年(1943年)大阪商工会議所が公募した戯曲で「母ぐるま」が入選。27年(1952年)には「ごんぼ」で文学界新人賞を獲得し「文芸首都」の同人となった。32年(1957年)から名古屋市に住み、34年(1959)同人誌「東海文学」を主宰。新人の育成を図りながら地方在住の作家として創作活動を展開。著書に『脱走記』『流難の記』(共に直木賞候補)といった歴史小説のほか、『檻の中の女』『阿古女のうた』『飛騨雪解』など。代表作に飛騨の女の一生を描き、田村俊子賞を受けた『下々の女』(昭和46年・1971年)【飛騨人物事典より】
碑文に刻まれた作品『下々の女』(げげのおんな)というタイトルは、物語の舞台となっている飛騨地方が、古代、雪深い山奥の辺境の地であることから、底辺の地「下々の国」と呼ばれたことに由来しています。
物語の主人公・森下ちなは、明治18年、白川村平瀬の旧家に生まれ、合掌造りの家で大家族とともに暮らします。しかし、18歳の時に出奔。高山で憧れの街の暮らしを体験しつつも、結婚後は高根町など鉱山で働き、貧困・苦難と向き合う日々を送ります。やがて、ちなは、かつては嫌で飛び出したはずの白川郷に郷愁の念を抱くようになり、合掌造りの家での暮らしに戻り、昭和34年に亡くなります。
『下々の女』は、明治・大正・昭和という過酷な時代をひたむきに生き抜いた飛騨の女性・ちなの一生が、当時の飛騨の社会状況と共に、冷静かつ温かいまなざしで描き出されています。
今は、インバウンドでおおいににぎわう飛騨高山や白川郷ですが、昭和40年代までは、この物語に描かれているような辺鄙(へんぴ)な世界でした。
「以前、江夏美好の随筆集『飛騨雪解』を読んだことがあるのですが、ここには、飛騨に関するもの、子育てに関するものなど、90篇の随筆が収録されていました。飛騨に関するものでは、美好の出身地であり、戦時中の疎開先でもある飛騨市神岡町の話題が多いですね。また、子育てに関するものを読むと、小説家の面・母親の面と2つの面をもつ苦労が伝わってきました」
わたしは、随筆『わたしの飛騨高山』が好きですね。昭和時代の、今よりのんびりしていた高山市街地やその周辺の様子が描かれていて、懐かしい気持ちになります。
美好の生まれ故郷の阿曽布村は、昭和25年(1950年)に神岡町になり、今はその地名すらありません。そんな体験から、記録も兼ねて、丁寧に書き綴ってこられたのかもしれません。
ちなみに、この碑は、同好有志によって昭和58年(1983年)に建設されました。除幕式には、美好の夫君が紋付姿で参列されたそうです。
▲文学碑の前で、『下々の女」江夏美好
【文学散歩③】登山好きの小説家「田中澄江」と、飛騨の俳句の功労者「小鳥幸男」
先ほどの江夏美好の碑と向かい合うかたちで、静かにたたずんでいるのが「田中澄江」です。

【碑文】飛騨の高山に人々は 何を求めてゆくのか 木で造られた町の姿のよさ それが古びてなお存在する美しさ そこには日本の遠い昔からの伝統的建築様式があるだけでなく そこに住みついた人間の心の歴史もまた積み重なっている。一九九七年一月元旦 田中澄江 八十八歳
【田中澄江(たなかすみえ)】
明治41年(1908年)4月11日生~平成12年(2000年)3月1日没
小説家・劇作家・双六山楽共和国大統領。東京板橋生まれで東京都中野区に居住。旧姓は辻村。お茶の水女子大学文科卒。劇作家の田中千禾夫の妻。小説集『カキツバタ群落』で芸術選奨文部大臣賞(昭和48(1973))、小説『夫の始末』で紫式部文学賞と女流文学賞(平成8年・1996年)を始めブルーリボンシナリオ賞、紫綬褒章など受賞。登山と花を好み、平成1年(1989年)発足した「双六山楽共和国」の初代大統領を務めた。平成9年(1997年)飛驒民俗村文学散歩道に文学碑が建設された。【飛騨人物事典より】
著名な小説家だった彼女の文学碑が、高山に建てられた理由は、高山の老舗企業との不思議なご縁がもとでした。
高山市にある苗代会社「コサカ苗代」の先代・小阪吉造氏が、17~18歳の頃に東京都板橋区にあった種問屋(田中澄江の実家)に奉公し、その当時、まだ幼かった澄江の身の回りの世話をしていたそうです。このご縁をきっかけに、当時のコサカ種苗の社長・小阪慶一による熱意と寄付によって計画が進み、平成9年(1997年)に文学碑が建設されました。
生前の田中氏は、山が好きで、登山や植物に関する著書も多くあります。
随筆集『山がそこにあるから』には、「もうあの稜線に立つことはない。かつて、こんな切ない別れを人としたことがなかった」「高山に、私のふるさとがある」などと記されており、北アルプスや高山への親しみを書き残しています。
「この他にも、代表作でもある随筆集『花の百名山』には、彼女が選んだ山100座について、そこで見つけた花と自身の思い出、その土地の歴史などを盛り込みながら綴られています」と飛騨ボットAさん。
「この本の中で、飛騨に関連する箇所は4つあります。例えば、弓折岳の段では、骨折をして松葉づえをつきながら飛騨の高山から蒲田温泉に行ったことや、有峰から双六を経て飛騨の高山に出たことなど。また、木曽御嶽では、濁河温泉に向かって下った話。西穂高岳では、センジュガンピの花をずっと前に平湯の大滝のそばで見つけたこと。霧ヶ峰では、ヤナギランに初めて出会ったのは戦後間もないころで、名古屋から飛騨川沿いに北上して飛騨の高山まで、その土地に残る民話伝説を調べに行った旅の帰りの、乗鞍までの道の途中で見つけ、この時、ヤナギランの華やいだ姿に、乗鞍から安房峠を超えて逃げていき、杣人に惨殺された戦国時代の松倉城城主・三木秀綱の妻のことをふと思い出した話。…等々です」
なるほど。『花の百名山』で、飛騨から紹介している山は「弓折岳」ですが、他の山々の記述で、飛騨に関わるエピソードが織り込まれているのですね。
▲『花の百名山』田中澄江
山が好きだった田中氏に配慮して、北アルプス(飛騨山脈)を一望できる文学散歩道のこの場所に碑が置かれました。確かに、この碑がある場所は視界が開けていて、遠くに北アルプスを望むことができます。
▲文学散歩道・田中澄江と江夏美好の文学碑エリアから眺めた風景。枝の合間から見えるのは、冠雪した北アルプスです。(2025年11月撮影)
田中澄江の文学碑をあとにして、また歩き始めます。
見晴らしのいい場所から、再び、木々が生い茂る山すその道に入ります。少し進むと、左手に碑が見えてきました。
▲木が茂る散歩道。この先に文学碑が3基あります。
最初に目に入ったのは、「小鳥幸男」の文学碑です。

【碑文】山が来て坐り直せる土用かな 幸男
【小鳥幸男(おどりゆきお)】
昭和6年(1931年)8月3日生~令和2年(2020年)7月逝去
㈱高山市民時報社・代表取締役会長(前代表取締役社長)、(社)高山市文化協会長・俳人。大垣市出身。旧姓は江黒。斐太高校卒。
昭和21年(1946年)高山市職員となり、市民課長、観光課長を経て退職。昭和59年(1984年)高山市民時報社に入社、同年株式会社に改組し代表取締役社長。(有)クロノス、㈱市民時報旅行などグループ社の代表取締役を兼務。(社)高山市文化協会長。高山市行政改革審議会長。高山商工会議所副会頭。高山市環境審議会長。(宗)桜山八幡宮氏子総代会長。俳誌『飛騨』代表。俳誌『河』当月集同人。句集『雪』『トロイの城』『死語と寝て』。著書『飛騨百景』『小鳥幸男著作選集』「飛騨の子守歌」、長唄「高い山から」を作詞。高山ロータリークラブ会長など歴任。高山市自治功労者(昭和56年・1981年)。岐阜県学芸功労表彰(平成10年・1988年)。高山市芸術文化顕彰受賞(平成18年・2006年)。
小鳥幸男氏といえば、高山市民ならどこかでお名前を聞いたことがあるくらい、高山の文化や観光などの分野で多大な貢献をされた方です。高山の人々にとって「小鳥さん」といえば、高山市文化協会長を務められたこともあり、「文化協会の重鎮」というイメージが強いですが、もともとは「俳句の人」でした。
小鳥氏は、15歳から俳句を作り始め、俳人・大野林火に師事し、平成3年(1991年)に「飛騨俳句会」を設立します。前文化協会長・小林さんのお話によると、「小鳥さんは、飛騨の俳句の第一人者で、飛騨の俳句界をけん引された功労者」とのことでした。そこで、この功績をたたえて、平成12年10月に文学碑が建設されました。
「実は、ぼくの祖父も、生前、俳句を詠んでいて、市内の俳句会に入っていたんですよ」と飛騨ボットAさん。小鳥さんの会派とは異なる会に入っておられたそうです。
そういえば、わたしの夫の父親も、生前は、町内の小さな俳句会(小鳥さんの会とは異なる会)や川柳のサークルに入っていました。
江戸時代、飛騨では、代官・郡代によって江戸の文化が持ち込まれますが、その中に「俳句」もあり、高山の町衆(旦那様)も句会を立ち上げ、俳句を楽しみました。その流れからか、高山の街中のご隠居さんたちの間で、俳句や川柳、短歌をたしなむ方が意外と多く、昭和から平成にかけて各地で会がつくられ、それぞれ活動していました。
そのリーダー的存在であり、飛騨の俳句の発展に尽くしてこられたのが小鳥氏でした。句誌の他に、自身の句集も多く出しています。
ちなみに、この碑文の句は、句集『死語と寝て』に収められています。
▲『死語と寝て』小鳥幸男
【文学散歩④】高山出身の小説家「瀧井孝作」と、日本を代表する小説家「井上靖」
小鳥幸男の句碑から、さらに少し歩いたところに、「瀧井孝作」の文学碑がありました。

【碑文】無限抱擁
【瀧井孝作(たきいこうさく)】
明治27年(1894年)4月4日生~昭和59年(1984年)11月21日没
小説家・文化功労者。高山町空町(現大門町)生まれで東京都八王子市に居住。号は折柴。河東碧梧桐に師事し俳句の道に入った。大正8年(1919年)時事新報記者になり、このころから芥川竜之介、志賀直哉らの知遇を得て文筆活動が旺盛となり『飛騨高山』などの短篇小説や随筆を次々に発表。昭和2年(1927年)代表作『無限抱擁』発表。『野趣』で読売文学賞(昭和43・1968年)。『俳人仲間』で日本文学大賞(昭和49年・1974年)。作品は「瀧井文学」と評され、トツトツとした中にも独特の味わいを持つ。昭和10年(1935年)の芥川賞創設から昭和56年(1981年)まで選考委員を務めた。俳句を生涯の友とし『瀧井孝作全句集』などがある。高山の観光ポスターに用いる「飛騨高山」の文字など六朝風の書法でも知られる。日本芸術院会員(昭和34・1959年)。高山市名誉市民(昭和46年・1971年)。文化功労者(昭和49年・1974年)。勲二等瑞宝章(昭和50年・1975年)。八王子市名誉市民(昭和50年・1975年)。【飛騨人物事典より】
この碑は、文学散歩道・第一号の文学碑として、昭和50年(1975年)に建設されました。
碑文の『無限抱擁』は、瀧井孝作が大正時代に発表した小説のタイトルです。内容は、飛騨高山から上京し文学を志す青年・信一と、吉原で出会った女性・松子の恋愛物語です。出会いから数年後、二人は晴れて夫婦となりますが、新婚まもなく松子は不治の病に倒れます。
この作品は、歴史的仮名遣いで書かれてあるため、ちょっと難解に感じられますが、大正時代の恋愛事情だけでなく、当時の東京の様子や庶民の暮らしぶりも描かれており、この頃の日本の空気感に触れることができます。
▲文学碑の前にて、『無限抱擁』瀧井孝作
作者の瀧井孝作は、明治27年(1894年)、高山町馬場通(現在の高山市大門町)で生まれました。大工の親方をしている祖父と指物師の父、職人の家庭で育ちました。しかし、子ども時代に母が亡くなり、父は事業に失敗。12歳で、小学校に在籍したまま、高山市上二之町にあった川上魚問屋に奉公に出ます。
仕事をしながら、友人と俳句作りに夢中になり、やがて15歳の時、高山を訪れた俳人・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう )と出会い、俳句の才を認められます。
明治45年(1912年・大正元年)18歳の時に大阪に出て、文芸活動を開始。さらに大正3年(1914年)には上京して、河東碧梧桐の門下に入ります。その後、大正8年(1919年)から時事新報の文芸記者となりました。記者として志賀直哉を訪問したのが縁で、以後、交流が深まり、志賀氏から多大な影響を受けて「心境小説」を書くようになりました。
「瀧井孝作といえば、観光用のポスターなどでよく見かける『飛騨高山』の字が有名ですよね」
そうでしたね。孝作が上京して、河東碧梧桐の門下に入って早々、画家であり書家の中村不折(ふせつ)との関わりも始まったので、そこで六朝(りくちょう)楷書の書体を学んだのではないかと思います。
▲赤丸で囲った「飛騨高山」のフォントは、瀧井孝作の書です。お土産屋の袋やパンフレットなど、観光関連でよく見かけるので、ぜひ注目してみてください。(飛騨高山観光コンベンション協会・公式サイトより引用)
余談ですが、中村不折は、河東碧梧桐の俳句の師・正岡子規(まさおか しき)の自宅(子規庵)の近くに住んでいて、ご近所どうし。不折と子規は親しい間柄でした。現在、中村不折の住居跡は「台東区立 書道博物館」になっており、子規庵の真向かいにあります。
「孝作の作品では、短編集『野趣』が面白かったですね。私小説的な物語が多数収められていて、その中でも、高山が舞台の『青萼の梅』は、地元高山の人なら知った名前の人物とか、料亭「洲さき」が出てきて、なかなか興味深かったです」
飛騨ボットAさん曰く、「これは、もしかしたら、あの人(地元の知り合い)のひいおじいさん?」という感じの登場人物が、いろいろ出てくるそうですよ。高山の皆さんにおススメです!
「かわったところでは、雑誌『暮らしの手帖』への寄稿もありますね。あと、福田夕咲らとともに郷土誌・俳誌『ツチグモ』を高山で発刊しています」
さらに、最近では、令和元年(2019年)、高山市文化協会が、設立70周年を迎えたことを記念して、映画『初めての女』が製作されました。これは、瀧井孝作の代表作でもある自伝小説『俳人仲間』の第3篇『初めての女』を題材にしてつくられた映画で、高山とその近郊で撮影を行い、令和2年(2020年)3月に公開されました。
※詳細はこちら→「初めての女」(高山市文化協会・公式サイト)
没後も、高山の文化や観光など、さまざまな面で、多大な功績を残しておられます。
瀧井孝作の碑をあとにして、少し歩くと、また開放感のある明るい場所に出てきました。
▲文学散歩道の案内標識。この横に次の碑があります。
散歩道の中で最も見晴らしがいいこの場所に、「井上靖」の文学碑がありました。

【碑文】人間が造った古い歴史と文化の町を、自然が造った大山脈、小山脈が取り巻いている。冬になると山脈という山脈は雪に覆われ、町は隅々まで、飛騨の貎(かお)を持ち、優しい人情に鏤(ちりば)められる。日本列島のほぼ中央に位置し、フンザ・ギルギッドと竝ぶ世界の山の町・高山。登山家の背の美しく見える、静かな山の町・高山。井上靖
【井上靖(いのうえやすし)】
明治40年(1907年)5月6日生~平成3年(1991年)1月29日没
小説家、詩人。文化功労者、文化勲章受章。北海道旭川町(現・旭川市)生まれ。昭和5年(1930年)金沢市の第四高等学校理科卒。井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿、詩活動に入る。昭和7年(1932年)九州帝国大学法文学部中退。京都帝国大学文学部哲学科へ入学、昭和11年(1936年)京都帝大卒業後、『サンデー毎日』の懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。なお部下に山崎豊子がいた。昭和25年(1950年)『闘牛』で第22回芥川賞を受章。昭和39年(1964年)日本芸術院会員となる。昭和51年(1976年)文化勲章受章。昭和57年(1982年)以降、世界平和アピール七人委員会の委員を務める。【平成23年度 高山市近代文学館調査研究報告書より】
この碑は、平成2年(1990年)に建設されました。
著名な小説家・井上靖氏の文学碑が、なぜ高山の文学散歩道に置かれたのか?その理由について、わたしは、小説『氷壁』が発端だと思っていました。
『氷壁』は、井上靖の代表作で、実在した二つの山岳遭難事故を題材にして描かれた小説です。舞台は主に東京と北アルプス穂高連峰です。物語の終盤で、主人公・魚津恭太が、飛騨側から北穂高岳にアタックするシーンが描かれています。
主人公・魚津のモデルとなった松濤明(しょうとう あきら)氏は、天才登山家として知られ、生前、新穂高温泉の一軒宿「中崎山荘」に何度か泊まっており、そこで働いていた高山の女性と出会います。この女性が、小説のヒロインの一人・小坂かをるのモデルと言われています。
このようなことから、わたしは『氷壁』が縁で、井上氏の碑が設置されることになったんだ…と思い込んでいたんですよね。
▲文学碑の前にて、『氷壁』井上靖
ところが、前文化協会長の小林さんのお話によると、当時、高山市文化協会の理事だった浅井通生氏と、井上氏が、中学校時代(沼津中学)の同窓だったことから、この話が進められたそうです。
碑の建設にあたって、井上氏から「文学碑には風化しにくい石を使う」「彫刻家の船越保武氏のデザインにする」といった条件が出されたため、担当者が金沢や天龍峡にあった井上氏の文学碑を現地調査し、これらを参考にして碑がつくられました。
平成元年(1989年)10月、建設予定地(現在の場所)を視察された井上夫妻は、(『氷壁』の舞台となった)北アルプスを一望できる場所であることに大変感銘され、喜ばれたそうです。
碑文には、井上氏が高山市のために書き下ろした詩が刻まれています。
「この詩は、井上氏の最後の出版本『詩集 星欄干』に収められています。この碑文の詩は、詩集の一番最後に掲載されています」と飛騨ボットAさん。
▲『詩集 星欄干』井上靖
『氷壁』で描かれている登山シーンは、長野県側(上高地)からの入山がほとんどなので、碑文に刻むことがてきる飛騨にまつわる文章は、ちょっと抽出しにくかったのかもしれません。
でも、井上靖と飛騨高山のつながりといえば、やはり、『氷壁』のイメージが強いせいか、北アルプスが思い浮かびますね。
▲井上靖の文学碑から眺める北アルプスの風景。『氷壁』が執筆された当時(昭和30年代頃)と変わらない稜線が望めます。
これにて、文学散歩道の文学碑巡りは完了です!
最後に、井上靖の碑のすぐ横にある展望台にのぼってみました。
▲展望台の様子。左に見える白い建物は、飛騨高山美術館&ホテル・サンクチュアリコート高山です。
天気がいい日は、ここから北アルプスを一望することができます。
▲秋の日の眺め。晩秋には冠雪した北アルプスが見えます。(2025年11月撮影)
文学散歩を楽しんだ後は、展望台で雄大な風景をお楽しみください。
▲腰かけて読書を楽しむ飛騨ボットAさん。読書の秋ですね。
【散策の合間に】飛驒の里通り沿いにあるレストラン igrec(イグレック)でランチタイム
それでは、文学散歩道から、飛驒の里通りへと向かいましょう。展望台をあとにして、また道なりに進みます。
▲自然豊かな道を歩きます。
下り坂のカーブを曲がると、直線の道に出てきました。このまま真っすぐ進んだ先に、飛驒の里通りがあります。
▲左手に「旅館 むら山」さんを見ながら、この道をまっすぐ進んでください。
▲飛驒の里通りに出てきました。この通りを進んだ先に「飛驒の里」があります。
ちなみに、文学散歩道への出入口(飛驒の里側)は、「飛騨高山テディベア エコビレッジ」さんの建物に挟まれた場所にあります。
▲正面の道が「文学散歩道」に通じる道です。この道の右側、生垣の奥には「テディベア ミュージアム」があります。左側はショップとレストランです。
そろそろお腹が空いてきたので、テディベアエコビレッジさんのレストランで、ランチをいただくことにしましょう。
レストラン igrec(イグレック)
▲店舗の入口です。
この日は日曜日だったため、店内は混んでいましたが、運よく席が空いていたので、入店することができました。お店の方にお聞きしたところ、「土日や祝祭日は、すぐに満席になるため、事前に予約していただくことをおすすめします」とのことでした。
▲ランチメニューはこちら。(2026年9月現在)
周囲のお客さんを見ると、皆さん「フレンチプレートランチ」を注文されていました。わたしたちは、飛騨ボットAさんのリクエストで、「結旨豚ステーキランチ」にしました。
▲こちらが「結旨豚ステーキランチ」です。
「結旨豚(ゆいうまぶた)」とは、白川郷産の豚肉で、白川村で飼育されている安全・安心にこだわったブランド豚(プレミアムポーク)です。
※詳細はこちらをご覧ください⇒◆白川郷特産品「結旨豚」(白川村役場 公式サイト)
「ボリュームがあって、美味しいですね!」と飛騨ボットAさん。ステーキなので、お肉の旨味を堪能できます。ガッツリ食べたい!という女性におすすめです。
▲結旨豚に舌鼓を打つボットさんの右側に注目!かわいい白と黒のクマさん(ぬいぐるみ)がいますよ。
お食事の後は、デザート(自家製シャーベット)とドリンクをいただきました。
▲この日の自家製シャーベットは「ぶどう」。さっぱりして美味しかったです。
▲ドリンクは、ホットコーヒーをチョイス
店内はしっとり落ち着いた雰囲気で、あちらこちらに、クマの置き物やぬいぐるみが置いてあり、心が和みます。
今回はランチ(お食事)をいただきましたが、スィーツやドリンクでのご利用もOKとのことでした。
igrec(イグレック)
【場所】 〒506-0031 岐阜県 高山市西ノ一色町 3-829-2
【TEL】 0577-62-9922
【営業時間】 11:00〜15:30(LO 15:00)/18:00〜21:00(LO 20:00)
【定休日】水曜日
【文学散歩おまけ】飛騨の近代俳句の功労者「小峯大羽」(場所・飛騨東照宮)
最後に【番外編】として、文学散歩道からほど近い「飛騨東照宮」の境内にある文学碑をご紹介します。
▲友好の丘駐車場から、飛騨東照宮の鳥居前までのマップ
友好の丘駐車場から約400m。5分ほど歩くと、飛騨東照宮の赤い鳥居が見えてきます。
▲こちらが飛騨東照宮です。
この境内にあるのが「小峯大羽」の文学碑です。高山市文化協会によって建てられました。

【碑文】夏草に一路あり 登山口と知る
【小峯大羽(こみねたいう)】
明治6年(1873年)2月15日生~昭和20年(1945年)5月24日没
俳人。画家・郷土史家。東京神田生まれ。名は邦寿。号を大羽楼大羽。東京府立毛筆画伝習所卒。
文学を尾崎紅葉、画を狩野洞谷に学ぶ。富岡永洗の藻斉画塾の客員、『風俗画報』を始め新聞、雑誌の挿絵を手掛けるなどした。俳句では、25歳から新聞、雑誌の選者として活躍し、『高潮』を主宰。徳田秋声らと交流。明治45年(1912年)に飛騨を訪れて魅せられた大羽は、大正2年(1913年)に高山へ転居。飛騨史談会創立者の一人となり『飛騨史壇』の編集を担当。地元の俳句結社の指導も行い、飛騨の文化に広く貢献。昭和7年(1932年)に名古屋へ転居。編著『俳句大観』『東京語事典』『蘭亭遺稿』 【飛騨人物事典より】
近年、飛騨の風土や伝統文化に魅了されて、他県から高山に移住される方がいらっしゃいますが、小峯大羽はその先駆けともいえる人でした。
東京神田で生まれ育った大羽は、絵や俳句で活躍していましたが、明治45年(1912年)、病気静養のため全国を巡るなかで、高山を訪れます。この時、高山の文化人や俳句会の人々から大歓迎を受け、ここ飛騨東照宮で「総合歓迎俳句大会」が催されました。
この旅で、飛騨の美しい自然や人々の温情に触れた大羽は、すっかり魅了され、東京の住居を引き払い、高山に移住します。以後、名古屋へ転出するまでの約20年間、飛騨の歴史を研究したり、句会の指導にあたるなど、飛騨地方の文化の振興に大きく貢献しました。
このような功績をたたえて、平成8年(1996年)、高山市文化協会によって文学碑が建てられました。ちなみに、この碑文は、大羽が残した色紙の中から選ばれたものです。
しかし、なぜ、文学散歩道ではなく、飛騨東照宮に大羽の文学碑が置かれたのでしょうか。その理由は、大羽が初めて飛騨に来たときの歓迎会の場所が、ここ(飛騨東照宮)だったことからだそうです。
「実は、若山牧水も、高山を訪れた時の手記に『郊外の高台に在る寺で歌会が開かれた』と記しています。この高台の寺とは松泰寺(=飛騨東照宮の昔からの通称で、神仏混交時代に飛騨東照宮を管理していた寺院)のことです。高山を訪れた著名な文人を、皆でもてなして句会や歌会を開くのに、ここは最も適した場所だったようですね」
▲東照宮の内神殿の入口。こちらは、江戸時代の建物で、玄関が、高山陣屋の玄関と似た造りになっています。この中の奥の座敷で、歓迎の歌会や句会が催されました。
飛騨東照宮・氏子総代様のご厚意で、特別に内神殿の建物内を見学させていただきました。
▲内神殿の座敷から見える風景。雲に隠れていますが、遠く正面に乗鞍岳がそびえています。牧水や大羽も、この場所からこの景色を眺め、歌を詠んだのでしょう。
小峯大羽の句碑を、あえて飛騨東照宮に設置した意味が、この風景を見て理解できました。ここは飛騨を訪れた著名な文人たちにとって、飛騨人との文化交流を楽しんだ場であり、また、初めての飛騨を詠んだ場でもありました。
まとめ
飛騨高山の文学散歩道、いかがでしたか?
今回は、近代文学にも詳しい飛騨ボットAさんのご協力を得て、10基の文学碑を順番にたどりながら「飛騨の文学」について深掘りしました。
▲早船ちよの文学碑にて。案内標柱を調査する飛騨ボットAさん
高山といえば、江戸時代のイメージが強いですが、本記事でご紹介した通り、明治・大正・昭和初期においても、高山は文化的な気風の漂う町でした。古い歴史と伝統を守りつつ、その一方で、中央の文壇とのつながりを持つ人々によって近代文学の新風が吹き込まれ、そこから飛騨独自の近代文化が芽吹き、育まれていきました。
周囲を険しい山に取り囲まれた孤高な土地だったことから、他所とは違うかたちで、独特の文化が醸し出されていったのです。それが現在、「飛騨高山ならではの魅力」として見直され、国内外の観光客を魅了し続けています。
今回ご紹介した飛騨に関する小説や随筆には、その作家が生きていた当時の飛騨の様子が描き出されています。昔の高山の人々の息づかい、飛騨で生まれ育った人々の世界観、飛騨の厳しい自然環境の中での暮らしぶり…等々。そうしたものを「読書」を通して感じることができて、何だかタイムスリップしたような気分を味わいました。改めて、読書の素晴らしさを実感しました。
ちょっと高山へ観光に出かける前の下調べの中に、「飛騨を扱った文学作品」を読んでみる…というのはどうでしょうか。
SNSや観光ガイドブックでは見えてこない、もっと深い飛騨高山を知ることができると思います。
ぜひ、文学散歩道を歩いて各碑を巡ってみてください。これをきっかけに、飛騨の文学の旅をお楽しみいただけたら幸いです。
▲山岳資料館の文学碑の前でハイチーズ!
<今回ご紹介したスポットはこちら>
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参考文献・紹介作品・協力
<参考文献>
・「創立50周年記念誌 昭和24年~平成11年」社団法人・高山文化協会
・「高山市近代文学館調査・研究報告書」社団法人・高山文化協会
・「高山市民時報 縮刷版」高山市民時報社
・「飛騨人物事典」高山市民時報社
・「飛騨の文化 斐太の歴史 大野政雄 著述集」大野政雄 著・大野博見 編集(岐阜新聞社)
・「飛騨の文学碑遍歴」中舎高郎(教育出版文化協会)
・「文学・飛騨の風景」岐阜県高等学校国語研究会・飛騨地区研究会
<紹介作品>
・「峠」早船ちよ
・「キューポラのある街」早船ちよ
・「福田夕咲全集」福田夕咲
・「山都年中行事」福田夕咲
・「山の民」江馬修
・「羊の怒る時」江馬修
・「下々の女」江夏美好
・「飛騨雪解」江夏美好
・「わたしの飛騨高山」江夏美好
・「山がそこにあるから」田中澄江
・「花の百名山」田中澄江
・「句集 死語と寝て」小鳥幸男
・「無限抱擁」瀧井孝作
・「野趣」瀧井孝作
・「俳人仲間」瀧井孝作
・「詩集 星欄干」井上靖
・「氷壁」井上靖
<協力>
・飛驒民俗村・飛驒の里
・社団法人 高山市文化協会










文学ファンの皆さまに、この記事が届きますように…。