もう一つの白川郷【荘川】を深掘り!歴史・グルメ・史跡を巡る「下道ドライブ」体験レポ with飛騨関連資料botさん

高山市街地から、国道158号線を西に進んだところにある、清流と桜の里・飛騨荘川(しょうかわ)。多くの人々が「白川村への通過点」として通り過ぎてゆくこの町が、かつて「白川郷」だったことをご存じですか?

白川村と郡上市の間に挟まれたこの地域は、江戸時代まで「飛騨国 白川郷」として、白川村と同じ文化圏に属していました。

そんな荘川町の魅力と見どころを、X人気アカウント・飛騨関連資料botさんとドライブしながらご紹介します!

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もう一つの白川郷【荘川】を深掘り!歴史・グルメ・史跡を巡る「下道ドライブ」体験レポ with飛騨関連資料botさん

荘川町とは?地理・歴史・アクセス

ドライブに出かける前に、荘川町について予習しましょう!地理や歴史、旧街道や現在の道路について解説します。

①地理

▲高山市荘川町の位置(「高山エリアガイド」飛騨高山観光コンベンション協会 公式サイトより引用)


高山市の西端に位置する荘川町(しょうかわちょう)は、南は奥美濃の郡上市、北は世界遺産の白川村と接しているエリアで、西方には白山信仰の美濃禅定道(みのぜんじょうどう)で有名な別山(べっさん)がそびえています。


また、町の中央を流れる庄川(しょうかわ)は、烏帽子岳(荘川町と郡上市にまたがる標高1,625.2 mの山)と山中峠(荘川町と郡上市明宝町の境界にある標高1375mの峠)の辺りを源流とし、支流の川と合流しながら、白川村の合掌造り集落を流れ、さらに富山県南砺市の五箇山(合掌集落)を通り、富山県の砺波平野に出て、富山県射水市で日本海に注ぎこみます。


▲庄川(荘川町 新渕地区)


水量が豊富な庄川には、各地でダムが造られており、その中でも、荘川町と白川村にまたがる御母衣ダムが有名です。


そんな庄川の上流に位置する荘川町は、かつては、白川村と同じく「飛騨国 白川郷」に属しており、荘川町は、庄川の上流域なので「上白川郷」(かみしらかわごう)、下流域の現・白川村は「下白川郷」(しもしらかわごう)と呼ばれていました。その他、高山市清見町の森茂地区(今は無人となり廃村)も、白川郷の一部でした。


幕末に高山陣屋の地役人頭取を務めていた富田礼彦(とみた いやひこ)の著書『斐太後風土記』には、「白川郷 四十三箇所村」として、現在の荘川町や白川村の集落・43か所のことが詳しく記されてあります。


▲飛騨荘川の里にある「旧木下家」。江戸時代末期に建てられた家です。白川村の合掌造りは「切妻造り」ですが、荘川の家はそれよりも古い形態の「入母屋造り」が主流になっています。


やがて明治時代に入ると、白川郷は、郡区町村編成法によって「荘川村」と「白川村」に分かれます。さらに平成の大合併で、荘川村は高山市の一部となり「荘川町」となりました。


かつて飛騨国の一郷名だった「白川郷」は、今は「白川村の合掌造り集落」のことを指し示す観光名称として残り、国内外で広く用いられています。



②荘川町の歴史


荘川町があった地域は、歴史が古く、恐竜の化石が多数発見されており、また、縄文人が住んでいた跡も残っています。


時が流れて平安時代、この地域は「長滝寺」(現在は長滝白山神社・郡上市白鳥町)の寺領(荘園)でした。長滝寺は天台宗の別院だったことから、当時の荘川では、天台宗と共に「白山信仰」が広く浸透していました。


▲荘川町六厩地区の白川神社。郡上白鳥の長滝寺によって創建されたという記録が残っています。

やがて鎌倉時代に入ると、親鸞聖人の弟子・嘉念坊善俊(かねんぼうぜんしゅん)が、郡上白鳥から白川郷に入り、浄土真宗の教えを説きます。白川郷は、飛騨国に初めて浄土真宗が伝わった土地であり、下白川郷(白川村)に建てられた道場・正蓮寺を拠点に、その影響は飛騨一円に広がりました。


▲荘川桜公園に建てられた嘉念坊善俊の像。左に見えるのは庄川の御母衣ダム湖です。


正蓮寺は、白川郷の中に寺領を持ち、強い勢力を誇っていましたが、室町時代に、将軍・足利義政の命令で内ヶ島(うちがしま)氏が白川郷に進出すると、両者は衝突します。しかし、正蓮寺方は、内ヶ島勢との戦いに負けてしまい、この時、善俊から数えて9代目(九世)の明教は自害。寺は焼かれてしまいました。


その後、真宗門徒によって越前(福井県)で育てられていた明教の子ども・明心が成人すると、内ヶ島氏は、本願寺の蓮如上人のとりなしで、明心や真宗門徒らと和睦します。そのお祝いとして、長亨2年(1488年)、上白川郷(荘川町)中野にお寺が建てられ、寺号を「照蓮寺」と改めました。


再興した照蓮寺は、手を結んだ内ヶ島氏と共に勢力を増し、ますます栄えていきました。


それから100年ほど経った天正13年(1585年)8月、越前の大野城主・金森長近は、豊臣秀吉の命令を受けて、養子の可重と共に飛騨に攻め入りました。


金森氏は、大野城を出発し、途中、石徹白(いとしろ)の「白山中居神社」に立ち寄って戦勝祈願をします。その後、長近は、別山の峰越えをして飛騨国・上白川郷に入り、可重は越前から郡上白鳥に入り街道を北上して上白川郷へと入りました。


こうして金森氏と飛騨国の各豪族との戦いは、ここ荘川で始まりました。

▲向牧戸城址(荘川町牧戸)。金森氏が飛騨で最初に攻め落とした城です。


荘川町牧戸にある「向牧戸城」(むかいまきどじょう)の戦いでは、金森氏方は、かなりの苦戦を強いられましたが、なんとか勝利します。その後、金森氏は、勢いを取り戻して他の城を攻め落とし、最後に高山の松倉城を落としました。


松倉城陥落の後、内ヶ島氏は、長近に降伏し、秀吉から許されて下白川郷(白川村)の帰雲城(かえりくもじょう)に帰ります。


ところが、それから数か月後、この年(天正13年)の11月に、天正地震が起こります。この地震によって、城の裏山が崩れ落ち、帰雲城の建物だけでなく、城主、家臣、城下町、そこに暮らす人々の全てが、地下に埋まってしまいました。こうして、白川郷を約120年間・四代に渡って治めてきた内ヶ島氏は滅亡しました。


また、長近が飛騨攻めで通った別山の峰越え道も、この大地震によって崩壊し、廃道となったといわれています。


内ヶ島氏が亡びた後、内ヶ島氏とのつながりが深かった照蓮寺を、そのまま残しておくことに不安を感じた金森氏は、高山城下に寺地を与えて移しました。これが現在の高山別院(真宗大谷派高山別院・光曜山照蓮寺)です。


▲高山市鉄砲町にある高山別院・光曜山照蓮寺。(提供 (一社)飛騨・高山観光コンベンション協会)


一方、荘川の照蓮寺には、正蓮寺の開基・嘉念坊善俊の墓や本堂が残りましたが、そのまま「照蓮寺掛所  心行坊」として維持し、地元の人々の信仰を集めました。しかし、昭和30年代の御母衣ダム建設で、(照蓮寺が建っていた)中野地区がダム湖に沈むことになり、建物を高山市街地にある城山公園に移築しました。


▲城山(高山市堀端町)に移築された照蓮寺。(提供 (一社)飛騨・高山観光コンベンション協会)


荘川から移された照蓮寺の建物は、現存する浄土真宗のお寺の建物としては全国で一番古く、国の重要文化財に指定されています。



③「郡上白川街道」とアクセス


高山市街地から、荘川町へ行くには、下道の「国道158号線」または「中部縦貫自動車道東海北陸自動車道」の2ルートがあります。


▲荘川町内のルート図。ピンクの枠は「荘川町」を表しています。


ちなみに、昔はこの地域に「郡上・白川街道」が通っていました。これは、「高山と郡上、高山と白川をつなぐ街道」で、途中、上白川郷(荘川町)で、郡上方面・白川方面へと道が分かれました。


今は、この街道に沿う形で、国道158号線国道156号線が通っており、荘川町牧戸地区が、「白川方面」「郡上方面」「高山方面」の分岐点になっています。


▲牧戸バス停(旧・牧戸駅)の案内板。「白川街道」「郡上街道」と明記されてあり、道筋がわかりやすくなっています。


荘川町の人々にとって、国道156号線と国道158号線は、日々の生活に無くてはならない大切な道路です。また、飛騨と越中富山、飛騨と奥美濃をつなぐ重要な道路として、県内外の多くの人々に利用されてきました。


さらに、平成時代には、この地域に「東海北陸自動車道」が開通しました。これにより、荘川インターチェンジが開設され、荘川町は、高山市の中で、名古屋方面へのアクセスが最も近いエリアとなりました。


今回の下道ドライブの同行者「飛騨関連資料bot」さんをご紹介します!

飛騨関連資料bot」とは、X(旧Twitter)で、飛騨の歴史・民俗・文学・文化・生活…等に関するニッチな情報を発信しているアカウントです。

▲X(旧Twitter)のアカウント

<飛騨関連資料bot・自己紹介>


わたしたちは、岐阜県飛騨地方にまつわる文献や、暮らしの中のモノ・コトをご紹介しているアカウントです。メンバーは飛騨地域の出身者で、大学で人文社会科学を学んだ者たちで運営しています。

活動のきっかけは、大学時代に卒業論文を執筆するなかで、飛騨地方に関する様々な文献に触れたことでした。文献を読み進めるうちに、今まで知らなかった郷土に関する情報や興味深い記述に数多く出会い、「もっと多くの人に、飛騨の魅力や飛騨に対する多様な視点を知ってもらいたい」と思うようになり、発信する活動を始めました。現在は主にX(旧Twitter)で情報を発信しています。 

当初は、文献の抜粋紹介が中心でしたが、今は写真を交えながら、飛騨の多様な歴史・文化・民俗・暮らしなどをお伝えしています。


▲飛騨関連資料botさんの「荘川町」に関するポスト(参考)


そんな飛騨の歴史民俗に詳しい「飛騨関連資料bot」さんとコラボし、高山市内各地を歴史探索する記事を執筆してきました。


◆『江戸時代の高山を歩こう!天領時代の飛騨高山を深掘りする歴史散歩 with 飛騨関連資料botさん』(市民ライター記事)シモハタエミコ


◆『【国道361号線・江戸街道をゆく】朝日町・高根町の旧街道を深掘りする歴史探訪 with 飛騨関連資料botさん』(市民ライター記事)シモハタエミコ


また今回も、飛騨関連資料botのメンバーのお一人で、Xアカウントの“中の人”の「飛騨ボットAさん(匿名)」と共に、荘川町を深掘りします!どんな歴史エピソードが飛び出すか、乞うご期待ください!


▲荘川町内にて。庄川を背景に、左が飛騨ボットAさん。右は筆者。

【下道ドライブ出発!】高山の中心地から荘川町までのルートをご案内

高山市街地から158号線を走って、一路・荘川町へ。実際に車を走らせながら、この区間の順路を簡単にご紹介します!

高山市街地から、荘川町までの下道ルートをご案内します。



高山市のアクセスマップ(飛騨高山観光コンベンション協会・公式サイトより引用)



①高山市街地・国道41号線バイパスから、158号線に入ります。

▲こちらは国道41号線、下呂方面へ向かう車線です。国道158号線との交差点には、このように「郡上・白川郷」とハッキリ表示されているので、その方面へ向かいます。


②国道158号線に入りました。

▲41号線から158号線(白川郷方面)に入ってすぐの地点。「郡上・白川郷」の表示を確認したら、このまま道なりに進みます。


③清見町内の三叉路で、右(白川郷・中部縦貫道)方向に進みます。

▲清見町 三日町にて。この先で「せせらぎ街道」と「国道158号線」に分かれます。どちらの道でも、郡上市に至りますが、今回は「荘川町」に行きたいので、右方の「白川郷・中部縦貫道」方面へ進みます。

▲三叉路に到着。ここで右方向へ進みます。(「せせらぎ街道」へ行きたい方は、左方向へ)


④「道の駅ななもり清見」と「中部縦貫道」高山西インターチェンジの間を通り抜けて、さらにまっすぐ進みます。

▲左手に「道の駅・ななもり清見」が見えてきました。右折すると中部縦貫道の「高山西インターチェンジ」に入りますが、このまま直進します。

※この先、コンビニ等ありませんので、ここで休憩をとっておくことおすすめします。


④小鳥峠を越えます。

▲山道に入ってさらに進み、「小鳥峠」の頂に到達しました。この先、峠道を下りながら、さらに道なりに進みます。

⑤「飛騨清見インターチェンジ」を通り過ぎます。

▲さらに進むと「飛騨清見インターチェンジ」の標識が見えてきました。

▲飛騨清見インターチェンジの入口付近。右折すると「東海北陸道」に入りますが、今回は下道ドライブなので、このまま直進して158号線を走ります。(中部縦貫自動車道は、ここ清見で東海北陸道と合流します)


⑥松之木峠を越えます。

▲道なりに走り続け、「松之木峠」の頂に到着しました。ここが清見町と荘川町の境になります。これより荘川町です。

⑦荘川町の集落に到着

▲民家が見えてきました。荘川町の玄関口・六厩(むまや)地区の集落にまもなく到着です。


◆国道158号線(高山市街地「上岡本町南」交差点 ~ 荘川町六厩「落合橋」)のルートマップ




【下道ドライブ① 歴史と文化】越中白川街道の宿場「六厩」と、茅葺き入母屋造りの拝殿「一色白山神社」

高山市街地に最も近い地区「六厩」の歴史と魅力について深掘りします!また、茅葺(かやぶ)き屋根が特徴の「一色白山神社」と、荘川町の集落文化についてご紹介します。

◆荘川町の玄関口「六厩」の歴史を深掘り!


荘川町に入って最初に出迎えてくれるのが、「六厩」(むまや)という地区です。


ここは、標高が1,000mあり、本州で最も寒い集落と言われています(1980年に-26℃を記録)。毎年冬になると「ダイヤモンドダスト」が見られることでも有名です。

▲国道158号線沿いに建てられた「むまや」の石碑。


▲「むまや」の石碑のすぐ横にある「落合橋」の下を、六厩川(むまいがわ)が流れていました。


「六厩」は「むまや」と読みますが、地元では「むまい」とも呼ばれています。「六つの厩(うまや)」という名の通り、ここは白川街道の要所で、馬継場(うまつぎば・宿場で駅場を乗り継ぐ場所)があり、実際に「六つの馬屋(厩)」があったことから、「六厩」という地名がついたようです。


「六厩川を渡って、神社がある方に行ってみましょう」と飛騨ボットAさん。158号線を右に折れて、奥へと進んでみました。


▲六厩川。中央奥に、落合橋と国道158号線がが見えます。六厩川は庄川の支流で、御母衣ダム湖で庄川と合流します。

六厩川を見下ろすかたちで、白山神社がありました。六厩地区の鎮守・白山神社です。


▲六厩の白山神社

飛騨ボットAさん曰く、「この神社に伝わる記録によると、郡上白鳥にある長滝寺が、この六厩に寺坊を建立して白山神社を創建し、川上郷・小鳥郷・白川郷の総社とした…と記されています」


長滝寺とは、現在の長滝白山神社のことで、美濃国の白山信仰の聖地です。その長滝寺が、白川郷を寺領にしていたのは平安時代から鎌倉時代にかけてと言われています。ということは、そのころに創建されたということでしょうか。


それにしても、白川郷だけでなく、川上郷・小鳥郷(今の清見町)までも信仰の教線を広げていたとは、長滝寺の勢力はすごかったんですね。


▲六厩の白山神社・拝殿前から眺めた風景。

その後、長滝寺の勢力が衰えてきたタイミングで、親鸞聖人の弟子・嘉念坊善俊が白川郷に入り、浄土真宗を飛騨に伝えます。その最初の地になったのが、白川郷でした。


さて、六厩の白山神社の近くに、築300年以上といわれる「岡田家」の建物が残っています。(現在は、古民家宿となっています)


▲岡田家の建物の前に立つ標柱


岡田家の先祖は、加賀から飛騨に入った金山師で、六厩に居を構え、金や鉱石を採掘しながら畑仕事をし、やがて六厩金山を発掘して長者となりました。


岡田氏は仏心が篤かったそうで、白川郷に入った嘉念坊善俊に帰依し、長滝寺から離れて、浄土真宗の門徒となります。さらに、屋敷裏に道場を建て、のちに了宗寺(真宗大谷派)を創建しました。


この了宗寺(文亀2年・1502年に開基)が建てられた頃は、ちょうど六厩金山の最盛期で、飛騨匠(ひだのたくみ)に依頼し、かなり財をかけた立派なお寺を建てたそうです。当時、人々の間で「小鳥白川六厩のお寺、こけら葺きとは知らなんだ」と歌われるほどでした。


▲岡田家の横にある「岡田のイチイ」。嘉念坊善俊が、この地を訪れた記念に手植えしたという言い伝えが残っています。


白川郷の意外な一面として 「金山」があり、鉱物資源が豊富だったことが挙げられますが、ここ六厩にも金山があったんですね。六厩金山は、良質の金が採れたことから、たいそう栄えたそうです。


「ちなみに、岡田家の屋敷は、白川街道を通る役人の宿になっていたようです。六厩の地名のもとになった『六つの馬屋』とは、この岡田家所有のものです」と飛騨ボットAさん。


白山信仰が盛んだったころは、白山参詣のための宿坊が六厩にあり、その後は、金山や白川街道の宿場として栄えました。民俗学者の柳田國男も、明治42年に飛騨を旅行中、六厩を訪れています。


▲白山神社前からの眺め。右に見えるお寺が「了宗寺」です。鐘撞堂(かねつきどう)の奥隣に「岡田家」があります。

六厩は、いろいろな要素が入り混じっている、非常に興味深い地区です。古代から現代にかけて、さまざまな人々がこの街道を行き交い、この景色を眺めながら通り過ぎていったか…と思うと感慨深いものがありますね。


さて、次の目的地「一色白山神社」へと向かいましょう!


コラム

六厩の「千鳥格子御堂」(高山市有形民俗文化財)

国道158号線沿いにある休憩所「くるまーと六厩」に、室町時代後期に飛騨匠が作ったといわれる千鳥格子のお堂があります。

六厩の「了宗寺」を建てた大工の棟梁が、余った木材でつくった「地蔵堂」で、もとは旧軽岡峠の辻に祀られていました。この御堂には千鳥格子が施されており、どのように組み合わせたものか、全くわからない不思議な細工になっています。

この地蔵堂は、平成4年の軽岡バイパス開通に伴い、現在地に移され、新たに作られた鞘殿 (さやどの)の中に収められました。

ドライブの途中に、ぜひ立ち寄って見てみてください!

六厩の「千鳥格子御堂」(高山市有形民俗文化財)

◆一色白山神社へ


再び国道158号線に戻り、白川村方面へと走ります。途中、惣則(そうのり)地区で左折し、「一色白山神社」へと進みました。


▲「一色(いっしき)白山神社」の参道

この神社は、荘川町の一色地区にあるので「一色白山神社」といいます。


「一色」(いっしき)という地名の由来ですが、『斐太後風土記』によると、「文明年間(1469年~1487年)に、一色義直の一族である一色義当が、浪人となってこの村に来て、住居して農民となった。一色義当の居住の村ゆえに一色村と称した」とあります。一色氏とは、足利氏の一門であり、室町時代の守護大名です。


白川郷といえば、白川村の「平家の落人」伝説が有名ですが、ここ荘川町には、清和源氏の武士が流れ着いたという伝説が残っているのですね。


▲神社の境内から眺める一色・惣則地区の田園風景。境界線はどこなのか?見分けがつかないほど、両地区は密接に隣り合わせています。


ちなみに、一色地区に隣接する「惣則」(そうのり)ですが、こちらも『斐太後風土記』によると、「一色村の三島正総が、川向うの村に隠居し、その子の総則(ふさのり)も後に隠居してその村に住んだため、その名が村名になった。しかし、その後、「惣則」(そうのり)と誤って伝わってしまった」と記されてあります。一色村の三島氏とは、嘉念坊善俊の子孫で、僧侶から環俗して武士となり、のちに一色村で帰農して「名主」(なぬし)となった一族です。


『荘川村史』によると、三島氏は、一色義当の孫娘を娶(めと)り、この地の開拓の祖となった…との記述もあります。


一色と惣則は、どちらも、この地に根を下ろした特別な家柄の人物から名をとった集落のようです。


では、神社の境内地に入っていきましょう。


▲一色白山神社

一色白山神社が創立された年代は不明ですが、古くから社地は、字(あざ)名が「 神田(かんだ)」「御手洗(みたらし)」と呼ばれており、社殿は、古墳の形をした築山に鎮座しています。また、かつてここは郡上白鳥の長滝寺の寺領だったことから、社殿は、長滝白山神社や石徹白(いとしろ)の白山中居神社の建築様式に似ているそうです。(「荘川村史」より)


鳥居をくぐって少し進むと、目の前に茅葺(かやぶ)き入母屋(いりもや)造りの拝殿が見えてきました。


▲一色白山神社 拝殿。高山市の「有形民俗文化財」に指定されています。(文化財指定名は「拝殿」ですが、「踊殿」「絵馬殿」とも呼ばれています)

江戸時代の記録によると、この拝殿は安永4年(1774年)に建てられたもので、飛騨国では「久津八幡宮の拝殿」(下呂市萩原町)や「水無神社の旧拝殿(絵馬殿)」(高山市一之宮町)に次ぐ、古い建築様式の拝殿の一つとされています。


▲少し横から眺めると、素朴ながらも美しく重厚な感じが伝わってきます。


茅葺き屋根の拝殿は、初めて見ました。たたずまいが品よく素敵で、見とれてしまいました。


ちなみに、江戸時代には、飛騨代官・郡代や役人などが越前国へ向かう途中(越前の一部も高山陣屋の管轄になっていました)、一色村の三島家に宿泊し、そのとき必ずこの神社へ参拝するのが恒例となっていたそうです。そこで、社殿の建て替えや、神宝・調度品の寄進が行われました。また、この三島家の家は、今も残っていて、後ほど見学予定の「飛騨 荘川の里」に移築されています。


しかし、高山で街道といえば、「江戸街道」(国道361号線)や、ブリ街道の「越中街道」が有名ですが、「郡上白川街道」も重要な道だったんですね。


…と、ここで、「荘川町といえば、これが有名ですよね」と飛騨ボットAさん。


何だろう?と思い、見てみると「舞台」がありました。


▲一色白山神社の舞台

実は、荘川町は昔から「村芝居」が盛んな地域で、かつては各地区の神社の境内に「舞台」があり、例祭の前夜祭として「奉納芝居」が執り行われたそうです。これはその名残です。


今も、地元の若者たちが中心となり、江戸時代から続く「荘川の村芝居」の伝統文化を守り続けており、現在は「荘川神社」と「黒谷白山神社」の二社の舞台でのみ、披露されています。


<2026年の奉納芝居スケジュール>

「荘川奉納村芝居」(黒谷白山神社)2026年9月1日(火)

「荘川奉納村芝居」(荘川神社)2026年9月14日(月)


若い世代が「人情時代劇」を演じていて、味があり見ごたえ充分との噂を聞きます。


「黒谷白山神社も、荘川神社も、どちらも国道158号線沿いにあります」と飛騨ボットAさん。


おぉ、それなら道に迷わず行けそうですね!わたしはまだ未体験なので、荘川の村芝居、いつか見てみたいなぁ…と思いました。



<場所はこちら>

【下道ドライブ② 特産品をチェック】「道の駅・桜の郷 荘川」で休憩タイム!おすすめ商品&郷土グルメ「けいちゃん」をご紹介

国道158号線沿いにある「道の駅・桜の郷(さと)荘川」と、道の駅に隣接する「ひだ荘川温泉 桜香の湯」をご案内します!


高山から約1時間、下道を走り続けて疲れてきたので、そろそろ休憩にしましょう!

…ということで、私たちは国道158号線沿いにある「道の駅 桜の郷 荘川」に立ち寄りました。


▲道路上に案内標識が見えてきました。ここから「道の駅」に入ります。


▲「道の駅 桜の郷 荘川」の外観


道の駅に着いたら、ぜひ見ていただきたいのが、荘川町のカラーマンホール蓋です。

▲図案のモデルは、町内にある「荘川桜」です。

▲場所は「道の駅」の建物の横、「荘川ドーム」の前です。ぜひ見つけてみてください!

ちなみに「マンホールカード」は、ここからもう少し白川村方面に進んだ所にある「荘川支所」でもらえます。詳しくは、こちら↓の記事でご確認を。

「【完全ガイド】飛騨高山のカラーマンホール蓋とマンホールカード配布場所」シモハタエミコ(市民ライター記事)




さて、売店に入ってみましょう!


▲売店に入る飛騨ボットAさん(後ろ姿)

▲店内の様子


この道の駅の駅長・山越信幸さんから、当店のおすすめ商品を教えていただきました。


駅長おすすめ① 荘川産の新鮮野菜

▲山越さんが真っ先に案内してくださったのが、こちらの荘川産・採れたて野菜コーナーです。

▲珍しい野菜もあり、見ているだけでも楽しいです。

「さっきまで、もっとたくさんあったんですけど…」と山越さん。

道の駅に立ち寄ったお客さんが買っていかれるそうで、私たちが訪れた時はご覧の通り、品薄状態でした。それだけ人気商品ということなんでしょうね。


駅長おすすめ② 荘川のそば

▲荘川産のそば粉を使っています。

荘川と言えば「蕎麦」(そば)が有名です。

「ここ荘川町は蕎麦(そば)の産地で、このように自宅で食べられる、お土産用の荘川そばも販売しています」と山越さん。そば好きの方に人気だそうです。


駅長おすすめ③ 荘川のけいちゃん

▲荘川町には「いちまのけーちゃん」と「山家のけいちゃん」の2種類があります。


▲荘川のけいちゃん(要冷凍)

「けいちゃん」とは、鶏肉の味噌漬けで、奥美濃の郡上市や、飛騨地方南部の下呂市で食べられている郷土食です。「けいちゃん」の「けい」は「鶏」のことです。キャベツなどの野菜と一緒に炒めていただきます。地域によって、鶏肉の硬さや味わい、味噌の塩味加減や風味などが異なるため、それぞれに特徴があり、食べ比べるのも楽しいです。


郡上市に近いことから、荘川町も「けいちゃん」食文化圏に入っており、荘川産のけいちゃんも製造販売されています。(高山市街地のスーパーでも購入できます!)


「これ、ビールがすすむんですよね」と飛騨ボットAさん。わたしはビールもご飯も両方すすみます(笑)


駅長おすすめ④ 郡上市の特産品

▲郡上市高鷲町のひるがの高原牛乳や、明宝町の明宝ハムなど、人気の奥美濃グルメ商品が並んでいます。

「郡上と荘川は、すぐ隣で近いので、このように郡上の特産品も販売しています」と山越さん。上の写真のような「要冷蔵」の食品以外にも、郡上のものがいろいろありました。お土産や自宅用にいかがでしょうか。


駅長おすすめ④ ソフトクリーム

▲隠れた人気商品だそうです。こちらは「いちごバニラ」。

国道158号線の西方(清見~荘川エリア)には、コンビニがありません。そのため、ドライブやツーリングで疲れて「ちょっと甘味が欲しい」ときに、ここのソフトクリームが人気なんだそうです。


▲ソフトクリームに舌鼓を打つ飛騨ボットAさん。

以上、お買い物の参考にしてください!




【番外編】荘川の「けいちゃん」を味わいたいのなら、「桜香の湯」へ


先ほどご紹介した「けいちゃん」ですが、道の駅に隣接している「ひだ荘川温泉 桜香(おうか)の湯」のレストランで、食べることができます。


▲こちらが「ひだ荘川温泉 桜香の湯」の入口です。「道の駅 桜の郷荘川」の建物の裏側にあります。

入浴施設ですが、お食事だけのご利用もできます。館内奥にレストランがあります。


▲レストランはこちら。「お食事処 おうか」の入口。


これが「けいちゃん」です!

▲一口食べた瞬間、お肉がとっても柔らかいのにビックリ。パンチの効いたニンニク風味の味噌味ですが、一緒に炒めた野菜(玉ねぎ・キャベツ等)の甘味とマッチして、とっても美味しいです。ごはんがすすみます!


▲こちらは「けいちゃん定食」(ごはん普通盛り)です。大盛りでもよかったかも(笑)。けいちゃんは単品でも注文できます。


▲メニュー表(2026年7月現在)。荘川の地元民からの情報では、このレストランの「ざるそば」もおすすめだそうです。


<スポットの詳細はこちら>

【下道ドライブ③ 古民家に触れる】「飛騨 荘川の里」を訪れて歴史散策し、築200年の古民家で「荘川そば」をいただく

荘川に残る古い建物を移築した「飛騨 荘川の里」を見学し、その後、古民家のそば屋さん「そばの里荘川 心打亭」で荘川産のそばを味わいました。


道の駅を出発後、158号線をさらに進むと、左手に「荘川の里」の看板が見えてきました。ちょっと寄ってみましょう。


▲国道158号線にて。左側の「荘川の里」の看板が目印です。

▲入口の様子。小川にかかっている原郷橋(ふるさとばし)を渡って入館します。

▲橋を渡ると、右手に「売店」があります。ここで入館料を支払います。


◆「飛騨 荘川の里」を見学


ここは、昭和47年(1972年)に、旧荘川村によって造られた施設で、主に江戸時代に建てられた荘川の古民家が、ここに移築されています。また、村人が使っていた民具や生活道具も保存されています。


高山市の野外博物館といえば「飛騨民俗村・飛騨の里」が有名ですが、ここはそれに並ぶ施設で、荘川に残っていた歴史的価値の高い家が集められています。


前回、執筆した「飛驒民俗村 飛驒の里」をご紹介する記事で、館内を案内してくださった歴史学芸アドバイザーの田中彰さんが、「荘川エリアの建築文化に触れるのなら『荘川の里』がいい」と話しておられたスポットです。


『【飛驒民俗村 飛驒の里】集落文化を未来へ・歴史学芸アドバイザーと紐解く、飛騨地方の農山村の民家と暮らし』シモハタエミコ(高山市民ライター記事)

 ※この記事には、飛騨地方の農家の特徴や「切妻合掌造り」と「入母屋合掌造り」の違い等、建築物についての解説がありますので、興味のある方はぜひご一読ください!


▲館内の様子。

この施設で、一番の目玉は「旧三島家住宅」です。先ほどの「一色白山神社」で登場した三島氏の家で、岐阜県の重要文化財に指定されています。


▲旧三島家の説明書き。移築前の住所が「白川郷 一色村」と記されています(現在は荘川町一色地区)。こうした表記から、やはり荘川はかつて白川郷だったんだなぁ…と実感します。

▲旧三島家住宅(岐阜県重要文化財)。高山の町家に似た雰囲気で、重厚で上品な造りです。


「旧三島家住宅」は、江戸時代の宝暦13年(1763年)に建てられました。現在は瓦葺(かわらぶき)屋根ですが、建てられた当初は茅葺(かやぶき)の入母屋造りでした。明治11年(1878年)に大改造が行われ、茅葺き入母屋屋根から、クレ板葺(いたぶ)きの切妻屋根に替わり、現在のような外観になりました。


「この家、よく見ると、玄関が三つありますね」と、飛騨ボットAさん。


右側は「生業」のための入口(馬屋の入口)、真ん中は「生活の場」としての入口(家族など一般用入口)、そして、左側の格子戸が閉められている入口は、「身分が高い人の玄関」です。三島家は名主(なぬし)だったので、代官・郡代や幕府の役人の宿(本陣)としても使われました。そのため、格式が高い方々が使うための特別な玄関がつくられたのでしょう。


▲旧三島家住宅の室内。幕府の御林山の木を伐り出して流送(川流し)する仕事を請け負っていた三島家は、御役所から刎木(はねぎ・傷がついて御用木と認められなかった木)300本の払い下げを受け、その材木でこの家を建てたそうです。そのため、ヒノキなど高級木材がふんだんに使われています。


三島家は、飛騨に浄土真宗を伝えた僧侶・嘉念坊善俊の子孫にあたります。本来なら照蓮寺9代目を継ぐはずだった教信が、弟に寺を譲って還俗し、武士となって三島姓を名乗ります。その後、三島氏は、白川郷領主の内ヶ島氏に仕えていましたが、天正時代(1573年~1592年)に、一色村で帰農したと伝えられています。


▲書院造の立派な「でい」(座敷)。ここで身分の高い客人をもてなしたのでしょう。


そして、この家は、江戸時代に飛騨で起きた百姓一揆「大原騒動」で、流罪となった高山の町人・上木甚兵衛の生家でもあります。


一色村の名家・三島家で生まれ育った甚兵衛は、30歳のとき、高山で造り酒屋を営む商家・上木家に養子に入ります。しかし、大原騒動が起きると、農民の味方になって罪人となり、新島に流されました。甚兵衛62歳のときです。


▲大原騒動や甚兵衛に関する貴重な資料も多数、展示されています。


誠実で働き者で、高い教養があり人徳者だった甚兵衛は、新島では「飛騨んじい」と呼ばれて、島の人々に慕われたそうです。


◆詳しくはこちらをご覧ください↓

特集記事「甚兵衛と勘左衛門 親子の絆の再発見」(飛騨高山観光コンベンション協会)


今も新島では、小学校の子どもたちが、代々、甚兵衛(飛騨んじい)の墓を掃除しており、とても大切にしてくださっているそうです。


▲旧三島家の一般用の入口につけられた便所。「飛驒の里」の旧若山家住宅(荘川村下滝から移築)の玄関先にも同様のものがありました。ここにトイレがあるのは、豪雪地帯の白川郷の農家の証(あかし)です。

他の家も見てみましょう。

▲旧法蔵寺 庫裡(くり)。白川郷 新渕村(現在の荘川町 新渕地区)から移築されました。荘川を象徴する、茅葺き入母屋造りの建物です。(高山市文化財)


▲旧山下家住宅にて。昔の暮らしぶりがわかる貴重な写真。


▲旧渡辺家住宅(高山市文化財)。白川郷 野々俣村(現在の荘川町 野々俣地区)から移築されました。朱色に塗られた軒下の小さな肘木(ひじき)が、かわいいです。


荘川町にも、かつては白川村と同様、茅葺き合掌造りの家がありました。荘川の合掌造りは、白川村の「切妻」屋根ではなく、「入母屋」屋根が主流で、そのため『荘川造り』とも呼ばれていたようです。ただ唯一、旧荘川村 下滝地区にあった旧若山家住宅は、白川村と同じ「切妻合掌造り」の家で、白川郷の農家の構造が「入母屋」から「切妻合掌造り」へと移行していく過程がわかる貴重な建物として、高山の「飛驒の里」に移築されています。ちなみに、旧若山家があった下滝地区は、御母衣ダム建設で水没しました。


旧荘川村でも、村内の貴重な文化遺産を後世に伝えるべく、それらの移築保存を目的に、この「飛騨 荘川の里」が造られました。


▲「荘川の里」を流れる庄川。この川の水は、遠くは富山湾へと流れていきます。

▲館内の「ふれあい橋」から、庄川のせせらぎを撮影している飛騨ボットAさん


「飛騨地方では、庄川のことを『しょうかわ』と読みますが、富山県の人は『しょうがわ』って言うんですよ」


えっ!?そうなんですか!初めて知りました。


今は荘川町と白川村は別々の自治体ですが、昔はこの庄川でつながる、同じ一つの「郷」だったんですよね。さらに下流の越中富山も、庄川を通して文化や経済面で深くつながっていました。そう思うと、何だか不思議な気持ちになります。


白山水系に属する庄川の、この美しく清らかな流れが、人と地域を結んでいたのですね。この絆、これからも大事に守っていきたいなぁ…と思いました。




◆そばの里荘川 心打亭へ 


さて、おなかが空いてきたので、そろそろお昼ごはんとしましょう。車を走らせて「そばの里荘川 心打亭」(しんうちてい)へと向かいました。


▲こちらが「そばの里荘川 心打亭」。飛騨らしい風情のある建物です。


荘川町には、手打ちそばが食べられるお店が四軒ありますが、この心打亭は、そのうちの一軒です。

▲店内の「日本一そばの里・荘川そば街道」ポスター。国道158号線は、道路沿いに荘川そばのお店があることから「荘川そば街道」と呼ばれています。

▲店内の様子。いす席があるので、正座が苦手な方にも安心です。

ここで、わたしたちは「ざるそば」と「野菜の天ぷら」をいただきました。

▲ざるそばと野菜の天ぷら

▲「ざるそば」荘川産のそば粉を使った、本格手打ちそばです。さっぱりしていて滋味深く、暑い日の暑気払いにピッタリ。

▲「野菜の天ぷら」地元産の野菜を揚げたシンプルな料理ですが、素材が持つ自然な甘さと、サクサク衣がマッチして、とても美味しかったです。そばによく合います!


おそばをいただきながら、「そういえば、シモハタさんと取材でお出かけするときは、いつもランチは麺類ですよね!」


あっ!確かにそうですね。第一作目の高山歴史散策の時は「大黒屋」さんの『貝柱のかき揚げうどん』を食べ、第二作目の朝日・高根の江戸街道ドライブでは「道の駅・飛騨たかね工房」で『火畑そば』を食べました。


そして、第3回目は、荘川そば。こちらもとっても美味しかったです!ごちそうさまでした。


最後に、心打亭の店長さんにお話をうかがったところ、こちらのおすすめは、やはり「ざるそば」だそうです!そして、この建物は、荘川町にあった築200年の古民家を移築したものだそうですよ。


そんな心打亭で、荘川の歴史を感じながら、特産のそばをご賞味ください!


<スポットの詳細はこちら>

【下道ドライブ④ 化石ルート】「恐竜の化石」と出会い、牧戸駅で旧国鉄バス「名金線」の歴史を知る

ここでは、化石の町・荘川の隠れた見どころスポットと、名古屋と金沢を結ぶ「急行バス」が通っていた頃の「牧戸駅」について、ご紹介します

荘川の歴史民俗に触れるスポットを訪れ、特産の荘川そばをいただいた後は、ガラッと一新して「化石」をテーマにしたコースを回ります!


わたしたちは心打亭を出発して、国道158号線を高山方面へと戻り、「荘川支所」(荘川総合センター)へと向かいました。


▲荘川総合センター。この中に「高山市役所 荘川支所」をはじめ、「高山市図書館 荘川分館」等があります。


◆恐竜の化石を見学


実は、総合センターのロビーに、荘川で発見された化石が展示されています。


▲展示コーナーの様子

わたしも飛騨ボットAさんも、化石は専門外なので、興味津々です。


▲荘川町で発見された恐竜の卵の化石。国内最古だそうです。


▲こちらは恐竜の歯の化石。

恐竜といえば、白山を挟んでお隣の福井県・勝山市が有名ですが、実はここ荘川町も、化石の宝庫で、さまざまな化石が発見されています。荘川には「手取層群」と呼ばれている約1億6千万年前のジュラ紀から1億2千万年の白亜紀にかけて堆積した地層があり、そこに様々な化石が含まれているそうです。


※詳しくは、こちらをご覧ください↓

・「荘川の化石」(特集記事・飛騨観光コンベンション協会公式サイト)


展示されている化石を食い入るように見ていたとき、「そう言えば、富田禮彦の『斐太後風土記』に、白川郷の化石の絵がありましたよね」と飛騨ボットAさん。


あー!ありましたね。これですね!


「斐太後風土記」大野郡白川郷より

文系のわたしたちは、古い書物から「荘川の化石」を紐解いてみましょうか。


これは「木葉石」(もくようせき)と呼ばれるもので、葉の化石です。


この絵に添えられている文章は、現代語に訳すと「木葉石は色が黄色で、大赭(=たいしや・「代赭」とも書く/天然の赤土から採取する顔料で赤褐色をしている)の色を含んでいる。性質はもろく柔らかい。土が変化したものであろう。形は大きな蛤(はまぐり)のようである。割ると二つになり、中に木の葉の模様がある。大小さまざまなものがあるという。」とあり、木葉石の特徴が記されてあります。


ちなみに、この絵は、『斐太後風土記』の「白川郷 尾上郷」(おがみごう・荘川町尾上郷)の段に描かれていて、文中には「(化石は)川原にある」とあります。江戸時代から「上白川郷(荘川)の川原に化石がある」というのは定番だったようです。


実際に、荘川町の人から話をうかがうと、荘川の子どもたちは、夏休みに開催される「化石教室」(任意)に参加し、そこで講師の先生について化石を採取したりするそうです。荘川の皆さんにとって、化石は幼いころから身近にあるものだと聞きました。


同じ高山市民でも、わたしも飛騨ボットAさんも(どちらも高山エリア出身)、化石は「めったに出会えない特別なもの」なので、このギャップに驚きました。所変われば…ですね。広大な高山市の、地域ごとの特性の違いを改めて感じました。



さて、せっかく荘川支所に寄ったのですから、ここで「マンホールカード」を忘れないようゲットしてくださいね!

▲荘川町のマンホールカード。平日は支所の受付で、休日・祝祭日は、日直室の窓口でもらえます。(2024年撮影)


「この先の国道沿いに、ジュラ紀の化石が展示してある公園があります」と飛騨ボットAさん。


えっ!それは是非見てみたいです!行ってみましょう。


…ということで、わたしたちは牛丸地区にある「ジュラ紀化石群」へと向かいました。




◆国道158号線から国道156号線へ・「牧戸駅」にちょっと寄り道


国道158号線を、白川村方面へと進んでいくと、途中、国道156号線と合流する地点(牧戸地区)にたどり着きました。


▲この先に三叉路があり、「白川村」方面と「郡上方面」に道が分かれます。


▲ここが牧戸の三叉路です。直進すると白川村、左折すると郡上市 高鷲(たかす)町に至ります。


ここで「ちょっと牧戸駅に寄ってもいいですか?」と飛騨ボットAさん。


えっ?牧戸駅??鉄道が通っていないのに、ここに駅があるのですか?


…と、不思議に思っていると、車は左折して「牧戸駅」と書かれた建物の前で止まりました。一見、普通のバス停に見えますが…。


▲こちらが牧戸駅です。


「ここは鉄道の駅ではなく、自動車の駅で、昔、JRが国鉄だった頃に走っていた『急行バス』の駅です」


飛騨ボットAさんの解説によると、この牧戸駅は、名古屋駅と金沢駅を結ぶ旧国鉄のバス路線「名金線」の駅だったそうです。


へー!そうだったんですか!ボットさんに教えてもらわなかったら、知らずに通り過ぎるところでした。


中に入ってみましょう。


▲かつて駅だった頃の改札窓口が残っていました。


牧戸地区が、運送の要所となったのは、明治から大正時代にかけて、ここに木材などの貨物を運ぶための「馬車道」が造られたことが始まりでした。その後、昭和4年(1932年)に、貨物輸送用の「自動車道路」が、郡上白鳥と牧戸を結ぶ形で造られます。


翌年の昭和8年(1932年)には、人を運送するためのバス(鉄道省の省営バス)が、郡上白鳥ー牧戸間で開業します。この時、牧戸駅が誕生しました。


「昭和8年といえば、高山本線が全通する一年前ですね」


そうでしたね。この牧戸駅が開業した年は、まだ高山線の工事が急ピッチで進められていた頃です。徒歩で街道を行くしかなかった時代から、乗り物に乗って遠くへ移動できる時代へ。陸の孤島だった飛騨が大きく変わる瞬間でした。


戦後、御母衣ダムが完成した後の、昭和41年(1966年)には、国道156号線を通る形で「名金線」(正式名は名金急行線)が開通し、観光路線として人気を博しました。


▲駅内に展示されていた「牧戸駅」の年表

 

そういえば、昔、国語の教科書に『太平洋と日本海を桜で結ぼう』(光村図書・中学1年)というお話が載っていましたね。国鉄バスの名金線の車掌・佐藤良二さんが、仕事がお休みの日に、一人でコツコツと路線の沿道に桜の苗木2,000本を植え続けた…というお話でした。佐藤さんの生きざまは、1994年公開の映画『さくら』(神山征二郎監督)に描かれています。


あぁ…あの「さくら道」で有名な名金線でしたか。思い出しました。


国鉄が民営化された後は、国鉄バスからJRバスへと替わりましたが、東海北陸自動車道の開通により、名金線はその役目を終えて、平成14年(2002年)に廃止となりました。


▲牧戸駅の建物から三叉路を眺めてみました。車やバイクが行き交う「交通の要所」であることは、今も変わりません。ちなみに、左に曲がると白川村方面(156号線)、右に曲がると高山市街地方面(158号線)です。




◆牛丸地区のジュラ紀化石群へ


わたしたちは車に乗り込み、牧戸の三叉路を左に曲がって、国道156号線(白川村方面)に入りました。そのまま道なりに進むと、左手に公園が見えてきました。「牛丸のジュラ紀化石群地」です。


▲入口に「ジュラ紀の化石群地」と刻まれた碑が立っています。


おぉーここですね!うっかりしていると通り過ぎてしまいそうな場所に、ひっそりとありました。


▲牛丸地区で見つかった化石が、この東屋の中に展示されています。

長年の風雪で、少し劣化しているところもありますが、予想していたよりも大きくて驚きました。柵の中にすっぽり収まっている化石は、色といい大きさといい、なんだか檻の中の動物(クマ)のようにも見えますね。


「ジュラ紀って、漢字だとこう書くんですね!」と飛騨ボットAさん。


▲「昭和十五年」と刻まれた古い標柱に、「天然記念物牛丸侏羅紀化石産地」とありました。

あっホントだ!「ジュラ紀」の漢字表記があるのですね。初めて知りました。



荘川町の化石は、明治初期にドイツの学者が、白山から見つかった化石をもとに地層を調べたのが始まりといわれています。白山を中心とした岐阜・石川・富山・福井に広がる「手取層群」の広大なエリアで、多数の化石が発見されており、その一端である「荘川」も、早い時期から日本の地質学者の間では「貴重な化石の宝庫」として知られていました。戦前から前後にかけて、日本の地質学者が荘川の手取断層に入り、化石調査を行っています。


岐阜県の天然記念物に指定されている「牛丸ジュラ紀化石」の場所は、荘川町牛丸地区にあり、ちょうど、この公園の裏手にある庄川沿いの地層だそうです。しかし、指定された場所の大部分は、現在、御母衣ダムの湛水(たんすい・水を溜めている)で、水底に沈んでいるとのことです。


でも、せっかくですので、化石群があったと思われる辺りを、ちょっと見てきましょう。




◆七間飛吊橋から「地層」を眺める


この公園のすぐ裏手に、大きな吊り橋があります。「七間飛吊橋」(しちけんとびつりばし)といい、アニメ『ひぐらしのなく頃に』のファンの間では、「沙都子橋」とも呼ばれている橋です。




▲「七間飛吊橋」下を流れるのは庄川です。

なかなか立派な吊り橋で、目の前に立つと、橋の長さと高さに圧倒されます。


どうします?渡ってみますか?


「これ、高所恐怖症にはかなりキツイです(泣)」と言って、飛騨ボットA氏は早々に撤退。実はわたしも高所恐怖症ですが、なんとか2~3mくらい橋げたの上を進んでみました。


空梅雨で庄川の水量が下がっているせいか、いつもは水の中にあるはずの地層がよく見えます。そこで、揺れる橋の上から恐る恐る激写。


▲これが橋の上から撮った画像です。あの辺りの地層に化石があるのでしょうか。

こうしてみると、荘川の人々にとって「化石」は、生活圏内ですぐに見つけることができる、とても身近なもの…というのが、何となく伝わってきます。


人類が誕生する前の、恐竜時代の地球の営みを、「化石」を通して触れることができる荘川町。そのスケールの大きさに、またまた圧倒されました。


ちなみに、この吊橋周辺は、秋になると紅葉が美しいそうですよ。


▲秋の七間飛吊橋の風景(提供 (一社)飛騨・高山観光コンベンション協会)


<各スポットの詳細はこちら>

【下道ドライブ⑤ 絆を結ぶ桜の物語】荘川桜と御母衣ダムへ。白川村のMIBOROダムサイドパークで「ダムカード」をゲット!

下道ドライブ、いよいよ最後の大詰めです!まずは「荘川桜公園」を訪れ、荘川桜と御母衣ダムの湖を眺めました。その後、白川村にある「MIBOROダムサイドパーク」で、御母衣電力館と荘川桜記念館を見学し、ダム建設当時の歴史とダムの仕組みを学びました。

次は、荘川町のシンボルともいえる「荘川桜」を見学します。「ジュラ紀の化石群地」を出発したわたしたちは、白川村方面に向かって、国道156号線を走りました。


しばらく道なりに進むと、途中、右手に、大きな2本の古木が立っている公園がありました。「荘川桜公園」です。



◆御母衣ダム湖と荘川桜


▲こちらが「荘川桜公園」です。国道156号線とダム湖の間に挟まれた小さな公園です。

ちょっと歩いてみましょう。


▲こちらが「荘川桜」です。桜シーズンはとうに終わっているので、葉が生い茂っていました。手前が照蓮寺の桜、奥は光輪寺の桜です。(岐阜県の天然記念物)


終戦間もない昭和20年代後半、荘川村と白川村にまたがるこの庄川流域に、「御母衣ダム」建設計画が浮上し、多くの集落が対象地区となりました。


ダム湖に沈むことになった集落の一つ「中野」地区は、嘉念坊善俊の流れをくむ浄土真宗の古刹・照蓮寺があり、この寺の境内には立派な桜の古木がありました。また、同じく中野の光輪寺にも大きな桜の木がありました。


「これらの桜を何とか残せないものだろうか…」


そう考えた、当時の電源開発株式会社(現・J POWER)の初代総裁・高碕達之助氏は、桜の移植は不可能だと反対される中、専門家や職人に依頼して、世紀の大移植を決行しました。枝葉を切り落として移された桜の木は、見る人を悲しませ、一時はダメかと思われました。しかし、桜は見事に新芽を吹き返して復活し、奇跡的に蘇ったのです。その後、桜は毎年花を咲かせるようになり、ダム建設によって故郷を失った人々の「心のより所」となりました。


その様子については、荘川町まちづくり協議会のこちらのサイトで、詳しく紹介されています。

・「荘川桜」ひだ荘川(荘川町まちづくり協議会)


こちらは、上のサイトからの引用です。ダム建設前の集落の様子の写真付きで、丁寧に解説されています。

・「人々の愛情によって助けられた奇跡の桜・荘川桜」(pdf)


▲荘川桜公園から眺める御母衣ダムのダム湖。


湖面を指さしながら「あの辺りが中野の集落でしょうか」と飛騨ボットAさん。


▲「照蓮寺の桜」の近くには、まるで照蓮寺があった場所を見つめるかのように、嘉念坊善俊の像が建てられていました。


▲この石碑には、村人たちの壮絶な戦いの歴史が刻まれていました。昭和36年建立。


ダム建設の話が持ち上がった時、荘川の人々は、故郷を守りたい一心で、必死に反対運動を繰り広げました。


そんな村民たちの、やり場のない怒りや悲しみを正面から受け止め、時には寄り添い、ダム建設への理解を求めて、真心をもって村民と関わり続けたのが、高碕達之助総裁でした。その高碕氏が、村の人々の気持ちに触れ、どうしても水没から守りたいと切願した桜は、見事に復活し、今も春には美しい花を咲かせます。


ちなみに、この「荘川桜」移植のエピソードは、2002年6月11日放送のNHK番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の中で、『桜ロード 巨木輸送作戦』というタイトルで紹介されています。


▲高碕達之助氏の歌碑。高碕氏が詠んだ短歌「ふるさとは 湖底となりつ 移し来し この老桜 咲けとこしへに」が刻まれています。


そういえば、名金線の国鉄バス車掌の佐藤さんは、移植後ようやく咲いた荘川桜を前にむせび泣いている老婦人を見て、心を揺さぶられ、「この沿道に桜を植えて、太平洋と日本海を桜で結ぼう」と決意されたんですよね。それから、生涯をかけて、佐藤さんは沿道に桜の苗木を植え続けました。


荘川桜には、さまざまなドラマがあり、何だか胸が熱くなってきます。




さて、わたしたちは再び車に乗り込んで、国道156号線をさらに進み、途中「白川村」に入りました。


▲尾神橋のほとりに立つ「白川村」の標識。この尾神橋は、庄川の支流の一つ「尾神川」にかかっており、この橋が、荘川町と白川村の境界線になっています。


この先にある、御母衣ダムについて学べる施設「MIBOROダムサイドパーク」を目指して、ひたすら走り続けます!




◆御母衣ダムとMIBOROダムサイドパーク


御母衣ダムに近づいたところで、カーブを大きく回って坂道を下ると、ちょうどダムの壁面と向き合うような位置のところに、「MIBOROダムサイトパーク」がありました。


▲「MIBOROダムサイドパーク」の入口。宇宙船みたいでカッコいいです。


中に入ってみましょう。玄関入ってすぐ右側が「御母衣電力館」、左側が「荘川桜記念館」になっており、正面に進むと、ロックフィル構造の御母衣ダムの壁面を眺めることができます。


▲こちらは右手の「御母衣電力館」の入口。

▲こちらは左手の「荘川桜記念館」の入口


▲施設奥に進むと、正面に岩肌の壁面の「御母衣ダム」が見えます。(施設2階より撮影)

それでは、順番に見学しましょう!


①荘川桜記念館

▲ヒダテンの「荘川さくら」ちゃんがお出迎え。


▲ここには、四季折々の美しい荘川桜の写真が展示してありました。


②御母衣電力館

▲ここには、御母衣ダムの建設当時の歴史や、ダム周辺の自然環境、ダムの仕組みを解説する資料が、展示されています。


▲ダムの構造がわかるジオラマ


小学生くらいのお子さんでもわかるよう、御母衣ダムについて楽しく学べる工夫がなされていて、これは、ダムが好きなお子さんの社会見学におすすめだなぁと思いました。(もちろん大人のダムファンにもおすすめです!)


そして、この館内にも「荘川桜」のエピソードが展示されていました。


▲「荘川桜」誕生の歴史を解説するコーナー。旧中野地区の古い写真もあり、当時を知ることができる貴重な資料です。これは一見の価値あり!です。

「荘川桜公園まで来たのなら、ちょっと足を延ばして、是非ここも訪れてほしいですね」と飛騨ボットAさん。


わたしもそう強く感じました。


現在、荘川桜は、御母衣ダムを管轄しているJ POWER(旧電源開発株式会社)さんが、管理と整備をされており、ダム建設のため故郷を去らざるを得なかった人々の思いを忘れないよう、決して枯らしてはならぬと、心を込めて荘川桜の世話をされているそうです。


御母衣ダム完成から60年以上経った今も、当時の人々の願いは大切に受け継がれています。



さて、最後に…。MIBOROダムサイドパークを出る前に、忘れないよう「ダムカード」をゲットしてくださいね!(玄関入ってすぐの窓口でもらえます)


▲「御母衣ダム」のカード、わたしたちもいただきました!


<各スポットの詳細はこちら>

【番外編】荘川町牧戸から車で約15分!郡上市の「ひるがの高原」に行ってみました!

市境を越えて、お隣・郡上市 高鷲(たかす)町の「ひるがの高原」まで足を延ばしてみました。

ここからは番外編です!荘川と郡上市はどれくらい近いのか?を検証するため、「牧戸駅」の三叉路地点から、郡上市に向かって進んでみました。


▲牧戸駅の前にて。牧戸から郡上白鳥までのこの区間は、国道156号線・158号線の重複区間です。今から、この道路を通って「ひるがの高原」に行きます。


牧戸駅を出発し、荘川町の野々俣(ののまた)地区を通って、10分ほどで、高山市と郡上市の境界線に到達しました。


▲「ひるがの高原」の標識が見えてきました。この道路は、名金線の桜の植樹にちなみ「さくら街道」とも呼ばれているそうです。

そのまま進んで、トータル約15分ほどで、ひるがの高原(郡上市高鷲町)の中心地に到着!意外と早く着きました。

▲荘川町から見ると、高山エリアよりも郡上市の方が、うんと近く感じられます。だから荘川は、昔から郡上との関係が深かったんだなぁと納得しました。




◆ひるがの分水嶺公園


ひるがの高原の156号線沿いに「ひるがの分水嶺公園」があります。

▲分水嶺公園の前に立つ石碑


ここは「車で行ける分水嶺公園」として、ちょっとした人気のスポットです。


▲公園前の地図。これを見ると、川の位置関係がよくわかります。


郡上市は、岐阜県内の白山水系の河川の分水嶺になっています。この地域が源の「長良川」、そして郡上と荘川の境が源の「庄川」は、どちらも自然豊かな清流です。これらの川は、昔から、流域の集落に恵みをもたらし、そこに暮らす人々の暮らしを支えてきました。


▲分水嶺の碑。水の流れが左右で分かれます。

小さな公園ですが、二大河川の「はじまり」の地に触れることができたという感動がありました。ここを訪れてみて「庄川は、白川郷だけのものではない。市や県を越えた広域の宝なんだ」と、改めて実感しました。




◆ひるがの高原のソフトクリーム


ひるがの高原といえば、有名なのが乳製品です。ここでぜひ味わっていただきたいのが、ひるがの高原の牛乳でつくられたソフトクリームです。


▲こちらは、ひるがの高原牛乳「たかすファーマーズ」さんのもこもこソフトクリーム。


ひるがのエリアには、ソフトクリームが食べられるお店があります。東海北陸自動車道・ひるがの高原サービスエリアで販売しているソフトクリームも、おすすめです!


高山の人々も、ひるがの高原に立ち寄れば、必ず食べています。ひるがののソフトクリーム、ぜひご賞味ください。




◆その他のおすすめスポット


高山市・飛騨市在住の小さなお子様連れのファミリーが、日帰りでよく遊びに行くという「牧歌の里」もおすすめです。子ども連れでも安心して遊べるスポットとして人気があります。羊・馬・アルパカなど生き物と触れ合えるコーナーもあり、動物好きな方や、自然の中でのんびり過ごしたい方にぴったりです。


▲牧歌の里(2025年6月撮影)


以上、郡上市「ひるがの高原」遠征レポでした!ドライブの参考にしてみてください。


<郡上市と高鷲町の観光案内>

まとめ/参考文献・協力

荘川町特集、いかがでしたか?


飛騨ボットAさんの案内で「荘川」の各地を回りましたが、今まで気づかずスルーしていたスポットがたくさんあり、とても勉強になりました。


その中で、気づいたことがあります。それは「荘川は草刈りが、とてもきれい」ということです。


実は、この取材の前に、ある方から『荘川の草刈り』という言葉を教えてもらいました。これは、「昔から荘川の人々は『草刈り』がとても丁寧で、集落をいつもきれいにしている」という意味の言葉なんだそうです。


確かに、今回、わたしたちが訪れた場所は、どこもきれいに草が刈られており、とても清々しくて気持ちが良かったです。


▲黒谷白山神社にて。目の前の建物は、村芝居の「舞台」です。境内はご覧の通り、すみずみまできれいに草が刈られていました。


『荘川の草刈り』について、道の駅 桜の郷荘川の駅長・山越さんにお聞きしたところ、毎年5月の秋葉神社のお祭り日に、町内一斉美化活動が行われ、そこで草刈りをするんだとか。それ以外でも、地区ごとに草刈り活動をしていて、町民全体で地域の環境美化に努めておられるそうです。こうした活動は、昭和40年代の「歩け歩け運動」が盛んだった頃に始まり、令和になった今も続けられているとのことでした。


草刈りはなかなか大変な作業です。自然豊かな所では、すぐに生い茂る草との格闘の日々です。


ですので、この美しい状態をキープされていることに、わたしも飛騨ボットAさんも「すごいなぁ」と感嘆したのでした。荘川町の皆さんの意識の高さに、心から尊敬の念を抱きました。


町民の皆さんが、先祖の代から大切に守ってこられた飛騨荘川。ここは、歴史あり・グルメあり・見どころありで、とても素敵な町です。是非、皆さまも一度訪れてみてください。


▲庄川を背景にハイポーズ!


<参考文献>

・「斐太後風土記」富田禮彦

・「飛騨山川」岡村利平

・「荘川村史」上・下 荘川村史編集委員会     

・「郷土荘川」荘川村教育委員会

・「義民 甚兵衛と孝子 勘左衛門」荘川村教育委員会

・「白亜紀の荘川村 その研究と復元 Part3」荘川村教育委員会

・「高山市史 街道編」上・下 高山市教育委員会

・「高山市史 近現代編」下 高山市教育委員会

・「高山市史 飛騨の山岳と自然の恵み編」高山市教育委員会

・「いにしえの飛騨にタイムトラベル 第4巻」田中彰

・「源流をたずねてⅢ」吉村朝之 (岐阜新聞社)


<協力>

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ライター・プロフィール

シモハタエミコ
生まれも育ちも飛騨高山。生粋の飛騨弁ネイティブです。お車だけでなく公共交通機関で高山に来てくださった方も楽しめる観光情報を中心にお伝えします。また、ニッチなお散歩コースもご紹介します。
荘川町は、郡上の「ひるがの高原」に近く、また、町内でおいしい蕎麦が食べられるので、私のお気に入りのドライブスポットです。下道ドライブで、荘川の四季折々の風景をのんびり楽しまれてください!
シモハタエミコ

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