【徹底ガイド】飛騨高山まちなか神玉巡拝・体験レポート ~高山の由緒ある神社の歴史と魅力をたどる五社巡りの旅~ 

近年、全国各地で注目を集める「神玉巡拝」。

飛騨高山でも、令和8年(2026年)元日から、市内五社(飛騨総社・飛騨天満宮・飛騨山王宮日枝神社・飛騨護国神社・櫻山八幡宮)で始まりました。

そこで今回は、飛騨高山の「神玉巡拝」と五社について詳しくご紹介します。

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【徹底ガイド】飛騨高山まちなか神玉巡拝・体験レポート ~高山の由緒ある神社の歴史と魅力をたどる五社巡りの旅~ 

神玉巡拝って何?その発祥と「飛騨高山版まちなか神玉巡拝」について徹底解説

最近よく耳にする「神玉巡拝」について詳しく解説!さらに「飛騨高山まちなか神玉巡拝」の詳細をご紹介します。


◆神玉巡拝とは?

▲「飛騨高山まちなか神玉巡拝」のポスター


「巡拝(じゅんぱい)」とは、「各地の寺社を参拝して巡る」ことをいいます。

日本では、古くは平安時代に貴族の間で流行した「熊野詣・くまのもうで」(熊野三山の参詣)や「観音詣」(清水寺や石山寺など観音霊場の参詣)などが有名です。

聖地を参拝して巡ることで、神仏から力をいただき願いが成就すると信じられてきました。


今回ご紹介する「神玉巡拝」は、そうした古くからの巡拝の風習を、現代のかたちに再現したものです。

「神玉巡拝」では、地域の複数の神社を巡り、それぞれの神社で授与される神玉(神様の力が宿った玉)を集め、それらを紐でつないで、自分だけの特別なお守りを作ります。


▲集めた神玉を、このように紐でつないで完成させます。つなげ方は、輪状にしたり、縦につないだりと自由です。

ちなみに「神玉巡拝」は、茨城県の常陸國多賀郡(北茨城市・高萩市・日立市)の神社で始まりました。


令和元年(2019年)、「茨城県多賀神道会」に所属する若手神職の有志により、「地域の神社の歴史を知ってもらいたい」と企画されたそうです。実際にこの試みが始まると、多くの参拝者が各社を巡拝して神玉を求め、人気を博しました。


現在、この取り組みは全国の神社に広がっており、静かなブームとなっています。(全国神玉巡拝マップ



◆飛騨高山の「神玉巡拝」について


高山市では、市の中心地にある五社(飛騨総社・飛騨天満宮・日枝神社・飛騨護国神社・櫻山八幡宮)が巡拝に参加し、「神玉」を頒布しています。


神玉には、各神社の神紋が描かれており、また、神社によって房紐(ふさひも)の色が異なります。(上のポスターをご参照ください)


ちなみに、実物はこんな感じです。

▲神玉は「神紐(房紐)と玉がセットになったもの」(800円)と、「玉のみのもの」(500円)の2種類あります。こちらは飛騨総社の神玉です。

神玉をつなげるための紐は必要ですので、必ずどこかの神社で「神紐がセットになった神玉」をお求めください。「紐の本数」や「色の組み合わせ」は自由です。


工夫すれば、神紐5本を使って神玉をつなげることも可能です。

▲「こんな感じで5本の紐をまとめれば、神玉に通せますよ」と飛騨護国神社にて教えていただきました。記事巻末【エピローグ】にてご紹介します!


巡拝する神社の順序は、特に決まっていません。最寄りの神社からお回りください。


◆各神社の詳細はこちら

飛騨総社
飛騨総社は、平安時代の朱雀天皇の御代(承平年間)に創建されたと伝えられる歴史ある神社です。飛騨の神々をひとつに祀る「総社」のルー…
飛騨総社
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飛騨天満宮
菅原道真公の三男兼茂公が建立した飛騨天満宮。亡き父を慕って自ら木像を彫り祠に祀ったのを始まりとします。一族の無実が認められ兼重公…
飛騨天満宮
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日枝神社
大山咋神と10の神様をお祀りする日枝神社(ひえじんじゃ)。時の三仏寺城主 飛騨守平時輔朝臣が狩りの最中、片野山中に奇瑞のことがあり…
日枝神社
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飛騨護国神社
県内に三社ある護国神社の内の一つ「飛騨護国神社」。毎年6月に開催される「泣き相撲飛騨高山場所」の開催地としても知られています。神…
飛騨護国神社
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櫻山八幡宮
古い町並みを抜けた先にそびえる大鳥居。さらに参道を進み、櫻山八幡宮の境内へ一歩足を踏み入れれば、そこには街の賑わいとは一線を画し…
櫻山八幡宮
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【突撃インタビュー】「飛騨高山まちなか神玉巡拝」の発案者が語る、神玉に込められた願い

飛騨高山の「神玉巡拝」を始めようとした経緯(いきさつ)について、発案者である飛騨総社の禰宜さんにお話をうかがいました。

全国15か所(令和8年3月現在)で行われている「神玉巡拝」。その神玉巡拝の"高山版"を発案されたのは、飛騨総社 禰宜(ねぎ)の小瀬浩史さんです。

「なぜ高山でも始めようと思ったのか?」そのきっかけと、「飛騨高山まちなか神玉巡拝」に込める特別な思いをお聞きしました。


▲左が飛騨総社 禰宜の小瀬浩史さんです。手に持っているのは高山の神玉です。(右は筆者)


シモハタエミコ
本日はよろしくお願いします。小瀬さんは高山の「神玉巡拝」の発案者とうかがいましたが、始めようと思ったきっかけは何ですか?
シモハタエミコ
小瀬さん
私は、趣味で各地の「神社巡り」をしているのですが、ずいぶん前に、東国三社(香取神宮・鹿島神宮・息栖神社)を巡るバスツアーに参加しました。
この時、「東国三社守」というお守りがあることを知りました。これは、三つの神社を順番にお参りして、各社のご神紋シールを集めて完成させるお守りなんですが、素敵だなぁと感じたんです。
別々の神社が一つになって「一つのお守り」を出されているのに心惹かれ、いつか高山でもやってみたいなぁ…と思いました。
その後、「神玉巡拝」というものを知り、「これならできるかもしれない」と思い立ち、高山地区の私と同世代の若い神職に相談してみました。これが始まりですね。
小瀬さん
シモハタエミコ
他の神職さまの反応はいかがでしたか?
シモハタエミコ
小瀬さん
実際に、神玉のサンプルを作ってお見せし相談したのですが、若手神職からは「いいと思うよ」と好意的な反応でした。
次に、各神社の宮司にお話をもっていったところ、飛騨天満宮の宮司さんから「これは素敵なことだから、やってみたらどうか」とご賛同いただきました。
こうして各神社にお声をかけさせてもらい、今の形になりました。
小瀬さん
シモハタエミコ
別々の神社が「神玉巡拝」によって、同じ目的で一つにつながったのですね。このお話をうかがって、私も「素敵だなぁ」と思いました。
ところで、この神玉巡拝に参加している五社は、どのように決まったのですか?
シモハタエミコ
小瀬さん
徒歩で巡拝できる範囲内にある神社で、参拝者に神玉を頒布できるよう、社務所に神職が常駐している神社にお声をかけさせていただきました。
また、社格が「金幣社」(きんぺいしゃ)の神社でそろえています。
金幣社とは、昔に定められた岐阜県独自の神社の等級(社格)で、上から金幣社・銀幣社・白幣社となっています。この五社はすべて金幣社です。
小瀬さん
シモハタエミコ
これらの五社は、昔から地元高山では誰もが知る、馴染みの深い神社ですよね。
さて、高山では、今年の元日(令和8年1月1日)からスタートしましたが、あまりに人気で、神玉が一時、品切れ状態になりましたよね。市民からの反響はいかがでしたか。
シモハタエミコ
小瀬さん
飛騨地方では初めての試みですので、最初は受け入れてもらえるか心配でした。おかげさまで、多くの方から好評をいただき、ホッとしています。
地元の人からは、「久しぶりに参らせてもらって、ありがたかった」とか「初めて参拝しました」というお声をいただいております。
櫻山八幡宮や日枝神社など、高山祭で有名な神社以外にも、こんな神社があったんだ…と、神玉巡拝を通して、地元の神社を知っていただく良い機会になったと感じています。
これをきっかけに「またお参りに行ってみよう」とか「今度は御朱印をいただいてみよう」など、地元の神社とのご縁を深めてくださることを願っています。
小瀬さん
シモハタエミコ
では最後に、これから神玉巡拝をされる皆様に、メッセージをお願いします!
シモハタエミコ
小瀬さん
普段の生活の中で、一人静かに自分を振り返ったり、日々の暮らしに感謝する機会を持つことは、なかなか難しいのではないかと思います。
そんな時こそ、神社を訪れ、神様の前で手を合わせてお祈りし、心を整える時間を持っていただきたいです。神玉巡拝によって、ご自身の目標や願いを改めて見つめ直し、感謝の気持ちを感じるひとときになれば幸いです。
完成した神玉は、手に取って目にすることで、巡拝時に心に描いた願い事や決意を思い出したり、あの時の自分を振り返るのに役立てていただけたらと思います。
また、観光客の皆さまには、巡拝の途中、お食事や観光を楽しみ、高山の文化に触れていただくのも素敵なことだと思います。どうか安全にお気をつけて、無事、大願成就されますことをお祈りしています。
小瀬さん

【神玉1つ目】「飛騨総社」をご案内 ~古代の国司巡拝から引き継がれる、飛騨の神々を祀る社(やしろ)~

「神玉巡拝」について語られた小瀬さんが、"禰宜"を勤める「飛騨総社」は、古い歴史を有する神社です。
ここでは、飛騨総社の歴史を解説し、境内の様子や人気のお守りなどをご紹介します。

▲飛騨総社・神門


◆歴史


奈良時代、朝廷は、各国を治めるため「国司」(こくし)を派遣し、国司は担当の国に入国すると、国内の主要な神社を回って参拝しました。これを「国司巡拝」といいます。そこで国司は祭儀を行い、国の弥栄と五穀豊穣を祈念しました。


しかし、平安時代に入ると、国司の巡拝は廃止されます。


代わりに、国府(=国司が政務を執り行う施設)の近くに社殿を建てて、そこに国内の主な神社の神々を勘請(かんじょう)し、また、その国の最高の神社である一之宮を祭殿にするなどして、各地を巡拝しなくても一括して神事が執り行えるような仕組みが整えられていきました。


飛騨国においては、広範囲に神社が点在しており、それらを回るのは(長距離移動のため)大変なことでした。


そこで、巡拝の習わしを廃止し、特別につくった社に、国内の各神社の主祭神を勘請してお祀りしました。諸説はありますが、これが飛騨総社の始まりであると考えられています。


▲『飛騨総社概記』社務所でいただきました。


飛騨国の総社は、延喜式内社の『神衹官神名帳』に登載されている「大野(於保乃)三座、荒城(阿良岐)五座の八神」の神々を主祭神とし、従祭神として『六国史神名帳』に所載されている神々を合祀して創られました。


確かな創建年代は不明ですが、朱雀天皇の御代・承平元年(931年)、総社が創祀され、国司みずから奉仕された…という言い伝えが残っています。


こうして飛騨国内の18の社の主な神様をお祀りする飛騨総社は、歴代の国司から厚く崇敬され、朝廷からも幣帛を賜るなどして栄えました。


しかし、応仁の乱以降、時代の流れに翻弄され、飛騨総社は衰頽(すいたい)と再興を繰り返していきます。


戦国時代に一時衰退しましたが、江戸時代の寛永5年(1629年)、第3代高山城主・金森重頼によって総社は再興され、寛文5年(1665年)には大改修が行われます。


ところが、高山が幕府直轄領となった天領時代の元禄年間(1688~1704年)には、総社には専門の神職がいなくなり、代わりに修験者などが奉祀するようになって「総社大菩薩宮」と呼ばれるようになりました。


さらに、天明の大飢饉(1781年)頃から再び廃頽し、文化元年(1804年)には、境内地がわずか二畝十歩(250平方メートル)という荒れた状態に陥りました。


▲「社号碑」江戸時代の高山の書家・岩佐一亭の揮毫です。碑の裏側を見ると、田中大秀の門弟・富田礼彦の「総社再興碑」の碑文を読むことができます。


こうした総社の荒廃ぶりを嘆いた高山の国学者・田中大秀(1777~1847年) は、文化3年(1808年)に『飛騨総社考』を著して再興を誓います。


飛騨国の人々に志を伝え、勧進(修繕のための寄付を募ること)に努め、文政3年(1819年)には社殿を再建し、祭神考証を済ませた上で、現在の祭神座列の因をつくりました。


さらに、今も残る飛騨総社の「神楽台」(岐阜県重要文化財)や「親子獅子」(高山市無形文化財)は、田中大秀のアイディアによって生み出されました。


文政年間(1820年ごろ)に、田中大秀の提唱により、飛騨総社の例祭に巡行する太鼓を乗せた箱形の台が作られ、その後、嘉永3年(1850年)には、一位一刀彫の名工・松田亮長によって屋台「神楽台」に改造されたと言い伝えられています。


また、寛政9年(1797年)に、日照りが続き干ばつが起きたため、田中大秀は近隣の大人子どもを集めて、降雨祈願の獅子舞を奉納しました。すると、黒雲が現れて雷鳴がとどろき、恵みの雨が降りました。これが「親子獅子」のもとであると言われています。アクロバティックな動きが特徴です。


▲飛騨総社の例祭に出される「神楽台」と「親子獅子」(写真提供・飛騨関連資料bot

田中大秀の尽力により、飛騨総社はかつての荘厳さを取り戻して復活します。


弘化2年(1845年)には、大秀の直孫の田中正民が神額を奉献するなどして、彼の志は後世に引き継がれ、境内地はさらに整えられ、ますますの隆興を遂げました。


明治時代に入ると、飛騨総社は、飛騨地方で最初の「県社」(明治維新以降の旧社格)に定められます。今でもよく、地元の人々が親しみを込めて「県社・けんしゃ」と呼ぶのは、ここからきています。


以降、現在に至るまで、飛騨総社は、氏子はもとより飛騨の人々の崇敬を集め、高山地区北部の中心地に鎮座しています。 


▲飛騨総社の社号碑と参道。七日町から入るこの参道は、明治時代に整備されました。


◆御祭神


飛騨総社に祀られている飛騨各地の十八社の神様は、以下の通りです。

▲表の最下にある「大八椅命」は、初代の斐陀(ひだ)国造と言われており、飛騨総社の主祭神です。 ※「国造・くにのみやつこ」…その国を治めた地方豪族の古代の官職名


飛騨総社を参拝すると、これら十八社をお参りしたことになるそうです。


◆境内の様子


小瀬さんに境内を案内していただきました!


▲「神門」荘厳な門構えです。



▲「拝殿」昭和59年(1984年)に建造。

小瀬さん曰く「雪国仕様で、積雪の重みに耐えられるよう、厚みのある立派な構えになっていて、屋根は丸みのある特徴的な造りをしています。」とのこと。


高山の他の神社とはちょっと異なる雰囲気で、全体的に大きくて迫力があります。社の前に立った瞬間、その荘厳さと重厚さに圧倒されました。


この拝殿の奥にある本殿に、飛騨国十八社の神様が祀られているそうです。わたしもここでお参りして、神様にご挨拶しました。


▲小瀬さんおすすめのビュースポットはこちら。「私はこの角度から見る社(やしろ)が好きですね」


拝殿の左側へと進みます。


▲拝殿の横にある朱色の鳥居の下を歩きます。この参道のわきに、ハート形の敷石があるそうです。参拝の折には、ぜひ見つけてみてください。


▲鳥居の奥には、末社の「稲荷神社」がありました。


▲この稲荷神社には、出雲大社の大国主命も祀られており、社の近くには立派な夫婦松もあることから、縁結びを願われる方々がお参りされるそうです。



▲神門に入ってすぐのところにある「祖霊殿」。

▲この祖霊殿には、総社歴代の宮司・氏子総代の御霊のほかに、「金清大神」(子宝の神様)と「杉山和一大入命」(すぎやまわいち うしのみこと)も祀られているそうです。

杉山和一とは、江戸時代に活躍した盲人鍼灸師で実在の人物です。世界で初めて「鍼治講習所(学問所)」を開設し、視覚障がい者に鍼按摩術を教えて、後進の育成に尽力しました。その功績により、神様として崇められるようになったそうです。


▲「ここに杉山和一が祀られていることから、整体や鍼灸の先生方がよく参拝に来られます」と小瀬さん。

健康の神様でもあるそうなので、わたしも健康祈願でお参りしました。




▲神門の内側から参道を眺めた様子。右手に見える白壁の土蔵は、屋台蔵です。



◆社務所にて


飛騨総社で参拝者に人気の授与品を教えていただきました。(初穂料は令和8年3月現在のものです)


▲飛騨総社の親子獅子をモチーフにした「獅子頭おみくじ」(500円)小さな獅子頭が可愛らしいです。

▲こちらは「御朱印帳」です。表紙は「獅子頭」(右側)、裏表紙は「神楽台」(左側)になっています。朱印帳のみは1,500円、御朱印を含む場合は2,000円です。 


ここで、わたしの神玉を授与していただきました!

▲「神紐と玉のセット」(800円)


ありがとうございます!


▲まずは1つ目。これから他の4つの神玉を求めて、巡拝に出かけます!

【巡拝モデルコース】高山駅を起点に「飛騨高山まちなか神玉巡拝」にチャレンジ!

「神玉巡拝」はどこの神社からスタートしてもOKですが、今回は、観光客向けに「JR高山駅を起点に、市街地をぐるりと一周して五社を巡るコース」をご紹介します!

「モデルコース」として、今回は、高山駅スタート飛騨天満宮日枝神社飛騨護国神社櫻山八幡宮飛騨総社高山駅ゴールの順番で巡ります。


▲神玉巡拝の神社に置かれている「巡拝マップ」。これを見れば各神社の位置がざっくりわかります。



それでは、いよいよ「飛騨高山まちなか神玉巡拝」スタートです!


▲スタート地点は「高山駅・東口」です。ここから歩きました。

神社までのルートがわからない場合、Googleマップで検索するのもいいですが、「飛騨高山ぶらり散策マップ・デジタル版」もおススメです!


◆デジタルマップの使い方


まずは、デジタルマップ(上のリンクをタップ)を開きます。


▲①デジタルマップを開いたら、画面下のアイコンの中から、行きたいスポットを検索します。

▲②鳥居マークの『寺社』をタップすると、「飛騨山王宮日枝神社(日枝神社)」「櫻山八幡宮」「飛騨総社」を検索することができます。

▲③「飛騨天満宮」を検索したい場合は、Pマークの『駐車場』をタップして「天満駐車場」を開いてください。

▲④「天満駐車場」を開き、「経路表示」をタップすれば、今いる場所から天満駐車場までの道を案内してくれます。

▲⑤黄色の点々にしたがって進みます。

▲⑥「天満駐車場」に到着しました!道路を挟んで向かい側に「飛騨天満宮」があります。


※「飛騨護国神社」については、飛騨天満宮と同じく「デジタルマップ」の『寺社』に掲載されていないので、神社付近にある施設「えび坂駐車場」(『駐車場』で検索)、または「堀端町のトイレ」(『公衆トイレ』で検索)で経路を検索するか、Googleマップをご利用ください。


【神玉2つ目】飛騨天満宮 ~菅家とゆかりが深い、飛騨一円の学問の神様~

地元では「天満さま」と呼ばれている飛騨天満宮。いわずと知れた学問の神様・菅原道真公が祀られています。飛騨地方の受験生が必ず参拝する神社です。

高山駅から南へ約1km、徒歩で15分のところに、飛騨天満宮があります。


実はこちらの天満宮は、主祭神の菅原道真(すがわらのみちざね)公と深いゆかりのある、歴史ある神社なのです。


▲飛騨天満宮


◆歴史


平安時代、醍醐天皇の御代・延喜元年(西暦901)正月に、当時、右大臣だった菅原道真公は、政敵の藤原時平の讒言(ざんげん・事実をねじ曲げた悪口や告げ口で人を陥れること)により失脚し、「太宰権帥(だざいのごんのそつ)」に左遷されるという事件が起きました。


この時、道真の三男・菅原兼茂も、文章博士から「飛騨権掾(ひだごんのじょう)」に落とされ、現在の天満宮がある花里の地に謫居(たっきょ・流罪となってこの地に住む)しました。


その2年後の延喜3年(903年)、道真は亡くなります。父の死を知った兼茂は、悲嘆のあまり、この地にあった梅の木に父・道真の像を刻み、父の霊を迎えて祠を建立し、拝礼するようになりました。


時は流れて延長元年(923年)、勅許(帝からの許し)を得た兼茂は、ようやく都に帰れることになりました。

この時、里人に「これからも祭祀を継続するように」と神像を託して、都に復帰します。


これが飛騨天満宮の創建となり、やがて「天満宮」と称されるようになりました。

代々、里人たちが大切に守り続けてきた天神様は、飛騨を治めた歴代の国司や領主、天領時代の代官・郡代からの崇敬を集め、脈々と護持されてきました。

近年では、飛騨地方の文学の祖神・学問の神様として、多くの人々から信奉されています。



◆境内の様子


飛騨天満宮 禰宜・細江信子さんに案内していただきました。


▲「石造鳥居」元禄2年(1689年)に建てられたもので、飛騨地方最古の石造りの鳥居です。高山市の文化財に指定されています。



▲「石造りの牛」明治22年(1889年)丑年生まれの地元の男性たちが、24歳になったことを記念して、大正2年(1913年)に奉納したものだそうです。



▲安政5年(1858年)に設置された狛犬。愛嬌がある可愛らしい姿をしています。



▲「神門」昭和2年(1927年)、最後の飛騨匠と呼ばれる名工・九代目 阪下甚吉によって建造されました。神門前の両脇には紅梅と白梅が植えられています。

実はこの神門、扉に"匠の技"が施されています。


扉の連子(れんし)のところに、天満宮の社紋「梅鉢」がありますが、これは、「梅鉢」の彫刻を別に作って上から取り付けたものではなく、連子に組まれた三角柱の木材を一本一本丁寧に彫りこんで、扉全体で梅紋が浮き出て見えるようにしたものです。「透かし彫り」という手法だそうです。


そのため横から見ると、梅鉢の模様が浮き出て見えます。


▲神門の扉。正面から見ると、こんな感じです。


では、横から見てみましょう。

▲浮き出て見えますね!この梅鉢と連子、よく見ると、切れ目なくつながっており、一体であることがわかります。

▲「透かし彫りの証として、連子の裏側を見ると、社紋を取り付けた跡は見当たらず、連子のみです」と、禰宜の細江さん。


確かに、裏側は普通の連子です。これはすごい!巡拝の折には、ぜひご覧ください!




▲「拝殿」神門と同じく、こちらも九代目阪下甚吉によって建てられました。

ここでお参りして神様にご挨拶。文学・学問の神様ですので、「今回もいい記事が書けますように…」と念入りにお願いしました。




▲末社「津島神社」

こちらは津島神社です。疫病退散の建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)をお祀りしています。


この津島社は歴史が古く、今から300年前の江戸時代・享保年間(1716~1736年)に、高山で疫病が流行した際、郡代の通達によって、この天満森に人々が集まり、疫病退散の大祈願祭(大護摩)を行ったのが始まりです。


また、文政3年(1820年)に、再び疫病が流行した時も、ここでご祈祷が行われ、多くの人々が参詣しました。


現在は、飛騨天満宮と花里八幡神社の共同で護持されており、毎年9月5日には、この二社の氏子によって津島神社の例祭が執り行われます。


この時、飛騨国分寺ご住職による経塚供養もあり、神仏習合時代の面影を残す行事となっているそうです。




▲神門前の「紅梅・白梅」。こちらは紅梅ですが、左方に白梅があります。

これらの梅の木は、平成14年(2002年)、菅原道真没後1100年を記念して、大宰府天満宮から神納されました。


▲大宰府天満宮から梅と共に贈られた「神納書」。美しく品のある手(筆跡)です。(※特別に見せていただきました)


▲奇しくもこの日、天満さまの梅の初咲きに会うことができました。最初の一凛。大宰府天満宮から贈られた「肥後駒止」(ひごのこまどめ)という梅花です。


◆社務所にて


飛騨天満宮で参拝者に人気の授与品を教えていただきました。(初穂料は令和8年3月現在のものです)


▲天満宮といえば、やはりこれですよね!「合格守」(1,000円)受験シーズンになると多くの学生さんが参拝に訪れ、このお守りをお求めになるそうです。私も学生時代にお世話になりました。


▲「御朱印」も人気です(500~800円)。右は季節限定の御朱印で、春バージョンだそうです(800円)。


▲「春祭り限定の御朱印」(800円)飛騨天満宮の例祭は、春の高山祭と同じ日(4月14日・15日)に執行されます。これも期間限定のレアなものです。


ここで、わたしの神玉を授与していただきました!

▲ありがとうございます!中には神紐つきの神玉(800円)が入っています。


▲2つ目の神玉、いただきました!

【神玉3つ目】飛騨山王宮日枝神社 ~春の高山祭の神社・金森家や代官 郡代から崇敬された高山の鎮守~ 

地元では「山王さま」と呼ばれている神社です。最近はアニメの聖地巡礼で訪れる参拝者が多く、静かで清廉とした神域のたたずまいが人気です。

飛騨天満宮から約600m、徒歩10分弱で、飛騨山王宮 日枝神社の参道入口に到着しました。


▲日枝神社参道の入り口。脇には、令和10年(2028年)に日枝神社で執行される「大祭」の大札が立てられていました。


▲日枝神社の一の鳥居

◆歴史


平安時代末期の永治元年(1141年)、 飛騨守・平時輔(たいらのときすけ)が、ある時、片野の山へ狩りに出かけたところ、老猿に会い、これを射ようと矢を放ちましたが、獲物は見当たらず、矢は大杉に深く突き立っていました。


これを見た時輔は、「大山咋神(おおやまくいのかみ)のお使いの老猿である」と神威を感じ、近江国から日吉大神を勧請してお祀りしたのが始まりです。


その後、木曾義仲の軍勢が攻め入り、社殿は兵火に遭って焼失しますが、片野の里人たちがご神体を救い出して別の場所に移してお守りし、長く奉祀してきました。


歳月は流れ流れて天正13年(1586年)。豊臣秀吉の命を受けた金森長近は、飛騨に入国し、国内統一を果たして、飛騨国守となります。


そこで金森氏は、代々守護神として崇めていた日吉大神を、新たに築く高山城の守り神とすべく、片野の里にあった日吉社から現在の場所へ奉遷して、城の鎮護神と定めました。


こうして日枝神社は、金森氏から社地の寄進や社殿の造営を受けて隆盛し、城下町高山の南半分と片野町の産土神となります。春の高山祭(山王祭)が始まったのは、金森時代の頃です。


元禄5年(1692年)、高山は幕府の直轄地となりますが、天領時代になっても歴代の代官や郡代からの崇敬が篤く、祈願所として栄えました。


◆境内の様子


▲「二の鳥居」

二の鳥居の前にある賽銭箱に注目です!

▲高山市出身の数理工学者・杉原厚吉氏(明治大学特任教授)が考案した「錯視が起こる賽銭箱」です。


▲手前(実物)と奥(鏡)では、違う模様になっています。

鏡に映った模様が、実物とは異なる模様に見えるように細工されています。日枝神社の前の事務局長さんと杉原さんが同級生でご友人だったご縁で、この賽銭箱を作っていただいたそうです。




石段を登って拝殿の方へと進みます。

▲「大杉」日枝神社の御神木です。

岐阜県の天然記念物に指定されています。高山市内の一本杉白山神社の矢立杉、飛騨国分寺の大イチョウとともに「三大木」に数えられています。




▲「拝殿」安政8年(1779年)に建てられました。高山市の文化財に指定されています。

昔、金森氏が、片野の里からこの地に"住吉社"を奉還した際、真言宗の僧・良弁(松樹院)が祭事を司ったことから、この建物は、寺院のような建築様式になっています。そのため、他の神社とは少し異なる雰囲気です。


この日(取材日)は3月初めだったので、拝殿前に地元・日枝中学校の美術部員が製作した雪除けがありました。




今回は特別に、拝殿の中を見学させていただきました!

▲案内してくださったのは、日枝神社 権禰宜・和田泰明さんです。

社務所から渡り廊下を通って拝殿へと進みます。


▲「拝殿」内部。差し鴨居の上に掲げられた多数の絵馬額に目を奪われました。

これはすごい!絵馬の迫力に圧倒され、思わず息をのみました。


この絵馬額の中には、金森時代の寛文5年(1665年)に、第4代高山城主・金森頼直の病気平癒と武運長久を祈願して、越中肴屋連中と金森家家臣高山町中が日枝神社に奉納したという古い額(高山市民俗文化財)もあるそうです。


▲「天領時代に奉納された絵馬もあります」と和田さん。拝殿の中にあるので、風雨や外気に晒されて風化することがなく、色彩がきれいに残っています。

拝殿の絵馬は一般公開はしていませんが、ここで結婚式や七五三、各種ご祈祷を申し込まれた方は、拝殿での神事の後に見学することができるそうです。


◆社務所にて


日枝神社で参拝者に人気の授与品を教えていただきました。(初穂料は令和8年3月現在のものです)


▲「鳥居まもり」(800円)。鳥居と「叶結び」の紐がセットになっているお守りです。


▲「鳥居まもり」の説明書き。これを読むと、願い事が必ず叶うパワーを強力に感じますね。

ここで、わたしの神玉を授与していただきました!

▲日枝神社の神玉


▲3つ目の神玉、いただきました!

【神玉4つ目】飛騨護国神社 ~平和を願う、厳かな静寂が流れる祈りの社~

かつて高山城三の丸だった場所に建てられた神社です。境内には、飛騨護国神社の他に、黄金神社など複数の神社が祀られてあります。

日枝神社の参道入口から約1.2km、徒歩で16分ほどで、飛騨護国神社の前に到着しました。


▲城山の北端、お堀にかかるこの橋が目印です。

▲飛騨護国神社。高山の神玉巡拝の五社の中で、最も新しい創建です。

◆歴史


護国神社とは、幕末以降、国難に殉じた人々の御霊を祀るために創建された神社で、飛騨地方においては、明治12年(1879年)、伊勢神宮の神々をお祀りする「飛騨大神宮」とともに「祖霊社」がこの地に創設されたのが発祥とされています。


その後、明治42年(1909年)には招魂社が設立されました。これが飛騨護国神社の始まりです。


岐阜県内には三社の護国神社がありますが、飛騨護国神社はそのうちの一つで、西南戦争から第二次世界大戦までの飛騨地方出身の戦没者の御霊をお祀りしています。


近年は、過去の戦争体験を後世へ語り継ぎ、世界の平和を祈る場として、また、桜の名所として、多くの人々がこの境内地を訪れ、憩いのひと時を過ごしています。


◆境内の様子


境内には「飛騨護国神社」の他に、「飛騨大神宮」「黄金(おうごん)神社」「久和司(くわし)神社」「飛騨匠神社」があります。それぞれ別法人の神社です。


▲御朱印も各神社ごとに5種あります。


ここからは、飛騨護国神社 禰宜・金井裕則さんに境内を案内していただき、順番に各神社を巡りました。


▲「飛騨護国神社・拝殿」大きくて堂々としたお社(やしろ)です。

飛騨地方では、戊辰戦争で亡くなられた方はいないため、西南戦争からの戦没者の御霊をお祀りしています。


金井さんのお話によると、西南戦争に出征して戦死された方は7人、日清戦争では約30人、日露戦争では約500人、第二次世界大戦では約5,500人だそうです。日露戦争から飛騨からの出征者の数が増え、特に第二次世界大戦時においては、戦地で多くの尊い命が失われました。




護国神社の左横にある社は、覆殿(おおいでん)です。

▲こちらが「覆殿」です。この中に「祖霊殿」「飛騨大神宮」「黄金神社」の三社が祀られています。

▲覆殿の中の様子。中央が黄金神社、左が大神宮、右が祖霊殿です。(※特別に見学させていただきました)

この「黄金神社」ですが、もともとは鉱山関係の神社でした。


創祀は古く、金森時代にさかのぼります。慶長年間(1596~1615年頃)に、飛騨国内の鉱業開発祈念のため、金山毘古神(かなやまびこのかみ)と金山毘賣神(かなやまびめのかみ)を奉斎して高山城内に祀ったのが始まりです。


江戸時代後期の文政年間(1818~1831年)に、現在の馬場町に「金銀吹分所」が設置されると、その鎮守神として遷座し、その後、明治13年に、現在の地に移されました。


以降、飛騨国内の鉱山に御分霊が奉斎されるなど、地元の人々からの崇敬は篤く、現在では「お金の神様」として人気を集めています。


社務所に詰めていた飛騨護国神社奉賛会の事務局長さんのお話によると、最近は「宝くじ当選」のご祈祷や金運祈願で、他県からの参拝者が増えているそうです。




▲「久和司神社」お菓子の神社です。

昭和31年(1956年)に、高山市内の菓子組合が、中島神社(兵庫県豊岡市)と漢国神社(奈良市)から神様を勧請して、この地にお祀りしたのが始まりです。令和7年(2026年)社殿が69年ぶりに改修されました。


久和司神社には、お菓子の製造販売をしている業者さんや、趣味でお菓子づくりをしている方が、よくお参りにいらっしゃるそうです。




◆「飛騨匠神社」大工の神様です。

江戸時代まで、飛騨国分寺で、飛騨地方の歴代工匠の御霊の祭祀・供養がなされていたそうです。しかし、明治時代に入り、神霊が国分寺から分離してこの地に移され、明治15年(1882年)に「飛騨匠神社」として祀られるようになりました。現在の社殿は、昭和36年(1961年)に高山建築組合によって建てられました。


こちらは「大工の神様」ということで、建築業や木工関係の方が参拝されるそうです。




見学の最後に、 金井さんから「こちらも見ていかれませんか?」とお声をかけていただきました。案内されたのは「遺品館」です。


▲境内の片隅にたたずむ「遺品館」


「遺品館」は、飛騨高山にゆかりのある戦没者の遺徳を偲び、戦争に関する資料の保存と見学と学びの場をつくることを目的に、昭和55年(1980年)に開館されました。


▲遺品館の中の様子

すべて、遺族の方々から寄付されたものです。戦中から戦後間もない頃に、貴重な遺品が飛騨護国神社に寄贈されました。


中には、中国大陸で学校の先生をしていた方(飛騨地方出身)が、召集されて戦地に赴くことになり、先生を慕う中国の子どもたちが、先生の無事を願い、心を込めて作って贈ったという旗も展示されています。


▲当時の新聞記事なども保管されていて、第二次世界大戦時の様子をうかがい知ることができます。

私は生まれも育ちも高山で、生粋の高山市民ですが、この遺品館のことは初めて知りました。館内に入った瞬間、亡くなられた方々の命の重みを実感し、身が引き締まる思いがしました。


金井さん曰く「どれも遺族の方々から託された大切な遺品ですので、慎重に扱うよう心がけてます」とのこと。


最近は、平和教育という位置づけで「地元の皆さんに過去の戦争について身近に知ってもらいたい」という思いから、飛騨護国神社の境内で開催される市民イベント時に限定開館しているそうです。


普段は閉館していますが、見学をご希望の方は、社務所にてお申し込みください。神職の立会いのもと見せていただけます。



◆社務所にて


飛騨護国神社で参拝者に人気の授与品を教えていただきました。(初穂料は令和8年3月現在のものです)


▲「御朱印」(500~1,500円)。中央は「飛騨大神宮」の季節限定の御朱印、左右は「飛騨護国神社」の特別限定の御朱印です。


▲最近人気急上昇なのは、黄金神社の各種「金運守」です。その他、飛騨大神宮の、ご縁を結ぶ「むすび守」や「恋守」も人気です。


ここで、わたしの神玉を授与していただきました!

▲4つ目の神玉、いただきました!


【神玉5つ目】櫻山八幡宮 ~秋の高山祭の神社・「両面宿儺」征伐をルーツに持つ、荘厳さと華やかさを兼ね備えた高山の総鎮守

地元の人々から「八幡さま」と呼ばれている神社です。境内に「屋台会館」があり、国内外からの観光客に人気です。

飛騨護国神社前の橋から約1.1km、徒歩15分ほどで、櫻山八幡宮の境内に到着しました。


▲「櫻山八幡宮」

◆歴史


はるか昔、仁徳天皇の御代(西暦377年ごろ)、飛騨国に「両面宿儺」(りょうめんすくな)という蛮勇豪猛な凶族が現れ、飛騨一円を荒らし回りました。


大和朝廷は、両面宿儺を討伐するため、難波根子武振熊命(なにわねこ たけふるくまのみこと)を飛騨国に派遣します。


武振熊命は官軍を率いて飛騨国に入ると、この場所で、先帝(武振熊命の御父君)の応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝祈願をしました。これが櫻山八幡宮の神域の始まりです。


その後、聖武天皇の御代(724年〜749年 )に八幡信仰が盛んになり、平安時代の清和天皇の御代(858年~876年) には、日本各地に八幡宮が建てられるようになります。飛騨国においては、この神域が八幡宮境内として定められ、社殿が整えられました。


室町時代に入ると、京都の石清水八幡宮を勧請し、人々の崇敬は高まりますが、その後の戦乱で廃頽。聖地も荒廃してしまいました。


▲拝殿横にある「八幡大杉所在遥跡」の碑。


時は流れて江戸時代、元和9年(1623年)、第3代高山城主・金森重頼は、江名子川から発見した御神像を「応神天皇の御神体(八幡神)」として、八幡宮旧跡の大杉の近くに奉安します。さらに社殿を再興し、神領を寄進して、城下町高山の北半分を氏子と定めて神事を管理し、高山府の総鎮守社としました。


その後、天領時代になっても、櫻山八幡宮は、歴代の代官・郡代から篤い崇敬を集めて、隆盛の一途をたどりました。


ところが明治時代に入り、明治8年(1875年)、高山大火に遭い、櫻山八幡宮は(秋葉社を除いて)ほとんどを焼失します。


しかし、すぐに社殿や社務所が再営され、明治25年(1892年)には飛騨国中随一の大きさを誇る大神輿(おおみこし)が造られ、明治33年(1900年)には『大祭』を斎行しました。(※この大神輿は、境内にある「高山祭屋台会館」にて見学することができます)


現在は、秋の高山祭の神社として有名です。地元の人々からの信奉篤く、遠くは海外からの参拝客であふれています。



◆境内の様子


櫻山八幡宮 宮司・谷田吉暢さんに、境内を案内していただきました!


▲櫻山八幡宮の宮司・谷田さんです。

まずは、大石段横の「手水舎」から見ていきましょう。


▲手水舎の大手水石(おおてみずいし)。側面を見ると「明治十年十月吉辰」と刻まれてあります。

この手水石は、幅200cm×奥行340cm×高80cmの巨大な一枚岩でできています。明治8年の大火の後に作られました。


冬の積雪を利用してソリでこの場所まで岩を運び、ここで刻んで加工したそうです。明治10年(1878年)に完成。 正面から見ると「寒澄清徹」の銘があります。




▲大石段と神門

この石段は19段あり、すべて一枚岩で作られているそうです。(取材日が3月初めだったので、神門の前に雪除けが設置されています)




大石段をのぼると、拝殿がありました。


▲「拝殿」


この櫻山八幡宮の神域一帯は、昔、浪速根子武振熊命(なにわのねこ たけふるくまのみこと)が、応神天皇の御尊霊を祀り、 両面宿儺征伐を祈願をした場所だと言い伝えられています。


そのため、この里の人々は「決して穢(けが)してはならない清浄な場所」として、代々大切に守ってきました。


しかし、応仁の乱以降はすっかり荒廃し、「八幡大杉」と呼ばれるスギの巨木と、「ここは聖地である」という古い言い伝えのみが残る状況でした。


そんななか、江戸時代に入り、第3代領主・金森重頼が、江名子川から見つけ出した御神像を「八幡神のご神体」として崇め、古い大杉のかたわらに安置してお祀りするのですが、その「聖地の目印」的存在だった八幡大杉は、残念なことに、明治の大火で社殿もろとも焼失したそうです。


谷田さん曰く、「現在の社殿(本殿・拝殿)は、昭和51年(1976年)に建て替えたものですが、その工事の際に、今の拝殿がある場所あたりから、大きな木の切り株が出てきたんです。それによって、かつてここに大木があったことが確かめられました」とのこと。


もしも焼けずに残っていたら、樹齢1,000年は超えていたそうです。見てみたかったですね。




▲「照前(てるさき)神社」

ここには、桜山八幡宮の創始といわれる、両面宿儺を征伐した「浪速根子武振熊命」が祀られています。




▲「天満神社」江戸時代の宝暦4年(1754年)、京都の北野天満宮より勧請されました。


「宝暦4年の前年は、飛騨国で大飢饉が起きました。そこで他国から厄難や疫病を入れないために、より力が強い神様をお祀りしよう…ということで、京の都から天神様をお招きしてお祀りしました」と谷田さん。


昔の人々は、「病気や災難は他国から侵入してくるものであり、国内や村内に強い神様を勧請してお祀りすると、厄病は恐れをなして入ってこない」と信じていたそうです。そこで、雷神でもある天神様をお祀りし、国や村を守ろうとしたそうです。


そういえば、先ほど訪れた飛騨天満宮では、江戸時代に境内地で疫病退散のご祈祷が執り行われた…と教えてもらったばかりでした。


なるほど、天神様は学問だけでなく、わたしたちを強力に守ってくださるパワーがあるのですね。


社の右横にある筆塚は、ここに筆を供養をすると書道の腕前が上達するといわれているそうです。




▲「稲荷神社」伏見稲荷大社より勧請されました。

社の前の狛狐(こまぎつね)さま、可愛らしいです。




▲「琴平神社」

琴平社なので、御祭神は「大物主神」(おおものぬしのかみ)と「崇徳天皇」(すとくてんのう)ですが、相殿(あいどの)で、医療の神「少名彦名神」(すくなひこなのかみ) も、お祀りしています。


そのため、昔は病気平癒を願う人々が多く参拝したそうです。


社殿の前出の天井を見ると、赤顔の天狗の絵が描かれており、何やら白いものがくっついています。これは紙で、「ロで噛んだ紙をその絵に投げつけ、天井につけば病気が全快する」という言い伝えがあり、その跡がこうして残っています。


▲琴平神社社殿の天井をのぞいて見ると…

昔の記録によると、八幡宮の片隅に「庖瘡神」(ほうそうしん)が祀られていたそうです。


疱瘡とは天然痘のことです。昔は子どもが罹ると1/3が死亡し、治っても失明や痘痕(あばた)が残ったり…と、恐ろしい病気でした。


当時は今のように医療知識がなかったため、天然痘にかかった子どもは、部屋に閉じ込めて、赤飯を食べさせ、赤い着物を着せて、赤い人形を抱かせて、赤尽くしにするとよい…と信じられていました。


ところが、明治8年の大火で、疱瘡神の社は焼けてしまいます。


その後、疱瘡神の社を再建するにあたって、他の神様も一緒にお祀りすることになり、今の形になったのだそうです。


以降、病気平癒の御祈願に多くの人々がこの社を参拝し、天井に紙を吹き付けるまじないをしたり、社殿の前に桟俵(さんだわら)に乗せた赤飯をお供えして、病全快をお祈りしました。

「昭和30~40年ごろまで、高熱が出る病気や子供の病を治してほしいと、ここに赤飯がずらーとたくさん並べられていました。当時のこの場所は、ちょっとおどろおどろしい雰囲気でしたね」と谷田さん。


こうした、疱瘡にかかった子どもたちの「赤尽くし」の病封じから、子どもの守り神として「さるぼぼ信仰」が始まったといわれています。


▲赤いものに囲まれ、赤い人形を抱く子どもたちの守り神として、元祖さるぼぼ(赤いサルのお守り人形)が生まれました。



最後に、絵馬殿の裏にある長い石段を登って、秋葉神社に向かいました。

▲石段の奥に見えるのは「秋葉神社」の覆殿(おおいでん)です。

明治8年の大火で唯一、焼けずに残ったという神社です。さすが秋葉様ですね!


▲覆殿の扉を開けると、中に「秋葉神社」がありました。

元和9年(1623年)、第3代高山城主・金森重頼が八幡宮を再興した時に、併(あわ)せて、高山城鎮護の神として創祀したのが始まりです。


天領時代に入っても、歴代の代官・郡代から篤く崇敬され、陣屋(代官所)の鬼門封じ・火防鎮護の神として祀られてきました。


そのため、この神社は、旧高山火消組から続く『飛騨秋葉講』の本社でもあります。


現存するこの社殿は、見つかった棟札から、江戸時代の安永7年(1778年)に建てられたもので、大工は高山壱之町の川原甚三郎であることがわかりました。この社殿および周辺の石灯篭・石段・棟札などは、高山市の有形民俗文化財に指定されています。




さらに、この秋葉神社の横を見ると、大きな石が祀られてありました。これが、地元の人々の間で有名な「狂人石」です。

▲「狂人石」(きょうじんいし)。神社・神域を穢(けが)した者がこの石に触れると、"狂人"になるそうです。

▲狂人石に添えられた説明書き

「昔の人は、この神域を絶対に汚さないよう守り続けるため、このような言い伝えを残したのではないかと思います」と谷田さん。


神秘的なパワーを感じます。でも、やっぱり怖いですね…。この石の前に立つと、畏怖の念がわいてきます。


櫻山八幡宮のディープな歴史に触れることができ、とても勉強になりました。ありがとうございました!



◆社務所にて


櫻山八幡宮で参拝者に人気の授与品を教えていただきました。(初穂料は令和8年3月現在のものです)


▲「卓上御守」(こちらは見本です)机や棚に飾っておけるお守りで、観光客に人気だそうです。(1,000円)


▲「酒難守」お酒で失敗しないためのお守りで、外国人観光客に人気があるそうです。(1,000円)


▲「厄落とし・清めの厄玉」この厄玉に息を吹きかけ「祓いたまえ清めたまえ」と念じながら、境内にある厄割石に(厄玉を)落として割ります。(300円)

実はわたし、昨年末に友人と桜山八幡宮を参拝し、この厄玉を使って厄落としをしました。おかげさまで心身ともに清められ、すっきり健やかに過ごせています。(効果絶大)



ここで、わたしの神玉を授与していただきました!

▲5つ目の神玉、いただきました!


【エピローグ】櫻山八幡宮→飛騨総社→高山駅の距離・徒歩時間と神玉のつなげ方

最後に、櫻山八幡宮から高山駅までのルートをご紹介します。また、番外編として「5本の神紐を神玉に通す方法」をお教えします。

櫻山八幡宮を出発し、次に、飛騨総社へと向かいます。

▲櫻山八幡宮の参道にて。デジタルマップで道順を確認。 

八幡宮の参道を西方向へまっすぐ進み、宮前橋(宮川)を渡って、さらに進んだ先に飛騨総社があります。


櫻山八幡宮の一の鳥居(木造の鳥居)から飛騨総社の前までは、約600m、徒歩で約10分弱でした。


▲飛騨総社前の石柱のあたりに来ました。 


▲飛騨総社、無事到着! 

飛騨総社については、すでに解説済ですので、ここから次に、高山駅へと向かいます。



▲飛騨総社から高山駅までは約1㎞。徒歩で15分ほどでした。


▲ゴールの高山駅に到着!お疲れさまでした。 


◆五社巡拝の距離と徒歩時間まとめ


高山駅→飛騨天満宮 約1km(徒歩15分)

飛騨天満宮→日枝神社 約600m(徒歩10分弱)

日枝神社→護国神社 約1.2km(徒歩16分)
護国神社→櫻山八幡宮 約1.1km(徒歩約15分)

櫻山八幡宮→飛騨総社 約600m(徒歩8分)

飛騨総社→高山駅 約1km(徒歩約15分)


(※「神社前」から「神社前」までの距離で計算しています)


▲「神玉巡拝マップ」より引用 


ルートだけなら約80分(合計約5.5㎞)ですが、実際には神社の境内に入って参拝する時間等も加わるので、徒歩時間や距離はもっとかかります。


参考までに、わたしの場合ですと、休憩なしで高山駅から一周回って五社を巡拝し、各社で境内を案内していただきながら隅々までじっくり見学して、トータルで約8㎞、歩数は約13,000歩でした。(スマホの万歩計より)


ここに休憩や飲食、観光の時間も加えると、丸一日かかると思います。


一日で巡拝をコンプリートしたい方は、時間に余裕をもってお回りください!



◆番外編 ~5個の神玉をつなげてみました!~


飛騨護国神社で教えていただいた方法で、5つの神紐を神玉に通してみました。


▲①パッケージから神玉を取り出します。 


▲②このように、神玉はすでに紐が通っている状態です。ここで紐から神玉をすべて外します。 


▲③紐だけを集めて、別に用意した紐または糸を通し、一つに束ねます。 


▲④一つまとめた紐に、順番に神玉を通していきます。 

通す順番はお好みで自由です。この時、神玉の裏にある神社名を見て、玉の天地(上下)を確認しながら通してくださいね。


ちなみに、わたしは(房側から)巡拝した神社の順番で通してみました。


この時、神玉を一つ一つ手に取りながら、巡拝中の風景や、そこで出会った人々、その時の出来事などを思い出し、ちょっぴり懐かしい気分になりました。


▲⑤完成です! 

わたしは5色の神紐をつなげましたが、紐の数や色についても特に決まりはありません。

思い入れのある神社や好きな色の神社で「神紐つき」をお求めになり、他の神社では「玉のみ」にする…という方法もOKです。


また、わたしは一本の直線状につなげましたが、輪状にする方法もあります。

皆さまのお好みに合わせて、ご自由にカスタマイズしてください!

まとめ

「飛騨高山まちなか神玉巡拝」特集、いかがでしたか?


今回、神玉を求めて五社巡りを体験しましたが、急な参詣だったにもかかわらず、訪れた各神社で「小瀬禰宜からお話は聞いています!」と気さくに声をかけていただき、和やかな雰囲気の中、取材にご協力いただきました。


この時、対応してくださった神職の皆さまのご様子から、五社が一つに結束されていらっしゃるのを感じました。その温かみのある雰囲気に触れて、自然とこちらまで心が温かくなり、感謝の気持ちに包まれました。


発案者の小瀬禰宜がおっしゃっていた「それぞれの地域のお宮が一緒になって一つのことをやる、このつながりが素敵だなぁと感じたんです」というお言葉。それを体現した空気感が、そこにはありました。


また、最後に、紐で結んだ神玉を手に取ったとき、それは単なるお守りではなく、自分だけの『物語』が形になったような、不思議な温もりと重みを感じました。


皆さまも是非、高山の神玉巡拝を通して、特別なひとときを体感してみてください!


今回の取材で、ご紹介した五社は、創始から今日まで、歴代神職をはじめ地元の人々が代々大切に守ってこられた聖地です。巡拝の際にはマナーを守っていただき、各社の神様に心を込めてお参りくださいますよう、お願いいたします。


どうぞ素敵な巡拝の旅となりますように…。


▲完成した神玉と共に


<今回ご紹介した全スポットはこちら>

Google Mapの読み込みが1日の上限回数を超えた場合、正しく表示されない場合がございますので、ご了承ください

参考文献

<参考文献>

・「飛騨の神社」飛騨神職会

・「斐太後風土記」富田礼彦

・「飛騨総社概記」(冊子)飛騨総社

・「創建一千百年奉祝祭記念誌」飛騨天満宮

・「日枝神社史」飛騨山王宮日枝神社

・「櫻山八幡神社史」櫻山八幡神社

・「高山市史 建造物編(下)」高山市教育委員会

・「日本古典と感染症」ロバートキャンベル編著


<協力>

飛騨総社

飛騨天満宮

飛騨山王宮日枝神社

飛騨護国神社

櫻山八幡宮

ライタープロフィール

シモハタエミコ
生まれも育ちも飛騨高山。生粋の飛騨弁ネイティブです。お車だけでなく公共交通機関で高山に来てくださった方も楽しめる観光情報を中心にお伝えします。また、ニッチなお散歩コースもご紹介します。
飛騨高山まちなか神玉巡拝、超おススメです!高山のいにしえの聖地を巡って心身をお清めください。
シモハタエミコ

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