飛騨高山の基礎を築いた金森長近公 ~令和6年は生誕500年~

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた戦国武将 飛騨国初代高山藩主

飛騨高山の基礎を築いた金森長近公 ~令和6年は生誕500年~
  • 金森長近公

金森長近公が誕生したのは大永4年(1524)、令和6年(2024)は誕生後500年にあたります。越前大野城主であった金森長近は、天正14年(1586)に飛騨の国主となり、現在の高山市の基礎を作り上げました。飛騨を治めることになった長近は、信長や秀吉と攻略した全国の軍事拠点や、越前大野の城下町づくりなどの経験を生かし、経済基盤のしっかりした城下町をつくりました。また街道整備、鉱山経営、山林資源の活用により飛騨を豊かな国にしました。


金森氏の出自

金森氏の先祖は美濃国の守護(国ごとの軍事指揮官)であった土岐氏の一族です。後に先祖は大桑氏を名乗りました。戦国時代に土岐氏の勢力が衰えてきたので、長近の父「定近」は一家で土岐郡大畑(多治見市)に移り「大畑」を名字としました。この大畑で、長近(初名・可近※)は大永4年(1524)大畑定近の二男として生まれています。その後、長近は近江国の寺内町であった金ヶ森(かねがもり・滋賀県守山市金森)に移り、「金森」の名字を名乗っています。

長近の初名は可近、五郎八、後に織田信長の「長」の字をもらって長近(ながちか)に改名しています。

越前大野城主に

  • 越前大野城(福井県大野市)
  • 越前大野城(福井県大野市)
  • 越前大野城(福井県大野市)

天文10年(1541)、18歳で織田信長に仕え、母衣武者(ほろむしゃ・側近)として各地で戦い、32歳の時には信長の1文字をもらって可近から長近へと改名しています。長篠の戦いなどで手柄を立てた長近は、信長から越前大野(福井県大野市)の国を拝領し、標高約249mの亀山の頂上に天守閣を築き、ふもとに城下町を建設しました。

越前大野城(福井県大野市観光交流課)


天正10年(1582)、本能寺の変で信長が亡くなり、長近の長男である長則も信長の長男信忠と共に自刃しています。

飛騨攻め

天正13年(1585)、長近は豊臣秀吉の命令で飛騨の三木氏を攻め滅ぼし、飛騨を支配することになりました。翌年の8月7日、長近は飛騨国3万8千石の国主として飛騨に入っています。

高山城築城

  • 高山城(復元推定図)
  • 高山城(復元推定図CG)
  • 高山城本丸跡
  • 城山二之丸公園
  • 中橋と城山(高山城跡)

国主となった長近は、初め「鍋山城」(高山市漆垣内町)に城下を構えましたが、城下町を発展させるには不便なため、天神山古城(現在の城山公園)の場所に城を築くことにしました。

城の建築は天正16年(1588)から始めて、慶長5年(1600)までの13年間で本丸と二之丸を完成させ、その後3年かけて三之丸が築かれています。高山城の標高は686mほどで、山頂からは高山盆地が見渡せる良い地形でした。

本丸には御殿風の秀麗な建物が建てられました。織田信長の安土城に似る作り方で、軍事的機能を最優先させた形の城とは異なっています。

元禄5年(1692)、金森氏第6代頼旹は突然出羽国(山形県)に移封、元禄8年には幕府の命により高山城は建物、石垣が完全に破却されました。三之丸にあった御蔵は高山陣屋へ、二之丸にあった月見殿は東山新明神社の絵馬殿として移築されています。

高山城跡

城下町づくり

  • 高山城下町絵図(飛騨高山まちの博物館所蔵)
  • 上三之町
  • 上二之町
  • 下二之町

飛騨高山の城下町は、城、武家屋敷、町人の町、寺院群で構成されました。町人の町は高台にある武家屋敷の下に配置され、城に近い方から一番町、二番町、三番町と番号がつけられ、南北に長い町並みになっています。城下町の中へは東西南北の街道が引き込まれ、経済の中心となりました。

高山城下町絵図


現在、この町人地の一部は、観光客に人気のスポットとして知られる「古い町並」として残っており、重要伝統的建造物群保存地区(略称・伝建地区)に「高山市三町」、「高山市下二之町大新町」の2地区、11㏊が選定されています。

古い町並 高山市三町伝統的建造物群保存地区 高山市下二之町大新町伝統的建造物群保存地区


城の向かいには浄土真宗の寺院「照蓮寺(現・別院)」を建てて、人々の心を安めました。また、東側の山のふもとには、武家の菩提寺がつくられました。

東山遊歩道

飛騨の国を豊かに

金森氏の飛騨における山林支配は重要な産業で、たくさんの収入がありました。また商業の発展、鉱山の発見と開発、街道整備なども、長近の重要な仕事でした。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の時、長近は3万8千石の大名でしたが、倍近くの6万石並みの大名と同じ数の兵隊を出すことができたといいます。それは豊かな山林と鉱山を持っていたからでした。

長近亡くなる

  • 金森長近公銅像(城山公園二之丸)
  • 素玄寺
  • 素玄寺

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは徳川家康方について前線で戦い、美濃国上有知(美濃市)1万8千石、河内国金田(大阪府堺市北区金岡町)3千石を増やしてもらい、小倉山城(美濃市)を築いて、そこの城主になり、高山城は第2代可重に任せました。

3英傑に仕えて波乱の人生を歩んだ長近は、京都伏見で慶長13年(1608)8月12日に亡くなっています。享年85歳でした。第2代可重は金森長近を弔うために、長近の法号「金龍院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士(さきのひょうぶしょうしよほういんようちゅうそげんだいこじ)」にちなんで素玄寺を建てています。

素玄寺  高隆山素玄寺 住職 三塚 泰俊氏

金龍神社

  • 金龍神社
  • 金龍神社
  • 飛騨東照宮

金龍神社は、第18代高山郡代の芝正盛が金森長近の法号にちなむ「金龍権現」の神号(神様の名称)を得て、飛騨東照宮境内に勧請して祀ったのが始まりといわれています。昭和17年(1942)現在地に遷座(移転)されました。

飛騨東照宮

問合せ先

一般財団法人 金森顕彰会 Eメールアドレス:nagachika5000@gmail.com


次に読みたい特集

ページトップへ